国泰寺 (北海道厚岸町)
国泰寺(こくたいじ)は、北海道厚岸郡厚岸町(創建時は釧路国)のバラサン岬に所在する臨済宗南禅寺派の仏教寺院。山号は景運山。国の史跡に指定されている。 歴史文化元年(1804年)の建立[1]。同年にかけて、享和2年(1802年)から、江戸幕府が蝦夷地政策(東蝦夷地の警備など)の目的で整備した蝦夷三官寺の一つ(他の二寺は胆振国有珠郡の善光寺、日高国様似郡の等澍院)[1]。当時、中部千島以北にはロシア帝国が進出しており、現地のアイヌに対してキリスト教を布教していた。これを憂慮した江戸幕府は、将軍徳川家斉の命によって国泰寺の建立がなされることとなった[2]。アイヌへの仏教普及や、蝦夷地で死んだ和人の葬儀を担った[1]。 寺は鎌倉の金地院の末で、記録によれば、その活動範囲は「トカチ、クスリ、アッケシ、ネモロ、クナシリ、エトロフ」の6箇所とされる。それぞれ、十勝、釧路、厚岸、根室、国後島、択捉島と考えられるが、当時の「厚岸」の範囲がどの程度のものであったかについては未詳である。初代住職には、相模国津久井郡青山村光明寺の文翁が任命された。 寺には、山門や東面する本堂のほか、天保6年(1835年)の観音石仏、天保13年(1842年)建立の仏舎利塔、歴代住職の墓所があるほか、東方の丘の上には竜王殿、馬頭観音堂、最上徳内建立の神明社跡(のちの厚岸神社)などがある。 1973年(昭和48年10月29日)、国の史跡に指定された[3]。 現在はサクラの名所としても知られる(後述)。 日鑑記『日鑑記』は、国泰寺の歴代住職が綴った日誌で、東蝦夷地の歴史を明らかにするための重要な史料であり、『蝦夷三官寺国泰寺関係資料』として国の重要文化財にも指定されている[4] 。1804年から1863年に書かれた36冊が現存しており、アイヌの暮らしぶり、地震・津波の発生、異国船の来航などが記されている[1]。 アイヌ民族弔魂碑弔魂碑は国泰寺入り口付近に建てられており、その裏には、次のように書かれている[5]。
文化財
交通アクセス脚注
関連項目外部リンク
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