善川三朗
善川 三朗(よしかわ さぶろう[3]、1921年〈大正10年〉11月20日[1] - 2003年〈平成15年〉8月12日)は、日本の宗教家、政治活動家、実業家。幸福の科学名誉顧問。本名・中川忠義(なかがわ ただよし)。幸福の科学総裁大川隆法の父。姉は作家の中川静子。 人物中川忠義は、父・源左衛門輝房(げんざえもんてるふさ)[2]、母・テルノの次男として1921年(大正10年)11月徳島県麻植郡東山村樋山地(現・吉野川市鴨島町樋山地)に生まれる[4]。父の源左衛門は宮大工の棟梁をしており、県内各地の寺社にその仕事の履歴を残している[2][注釈 1]。父が亡くなった8歳の1930年(昭和5年)頃、中川一家は川島町に移住し[4]、この時に「汝は、今生に大いなる責任を持って生まれたものである。」との天来の霊告を受ける[5]。 その後1934年(昭和9年)に中川一家は東京の書店で働く親戚を頼って上京し[4]、忠義は東京生活の間、矢内原忠雄門下の無教会派で学んだ後に乃木坂にあった「生長の家」の門をたたき、谷口雅春から直々の教えを受ける[4]。戦後、故郷徳島に戻り、青年師範学校を卒業した後[1]、青年学校国語科教師を振り出しに[1]、麻植郡美郷村の中枝小学校の代用教員などを勤める[4]。戦後の一時期、共産党運動に参加[4]。中川只芳(なかがわ ただよし)の筆名で、県委員会機関紙「徳島新報」の編集兼発行人をつとめる[4]。「ロハさん」と呼ばれるが入党はしていなかったという説がある[4]。一方、元日本共産党員等によれば、日本共産党員と呼ばれている。「入党はしていなかった」話は虚偽である可能性が高い。自身が徳島県警による摘発を受けた体験と思われる話を共産党の評論誌に小説として投稿している。 共産党を離れてからは、当時めずらしかったマロングラッセの製造販売を手がけたり、毛糸の編み針の製造会社を興すなどしたが、いずれもうまくいかなかった[4]。さらには結核に倒れ、1年間の療養生活を送る[4]。その時期の生活は理容学校出身で管理理容師の君子が、家の階下を床屋にして支えていた[1][4]。 1年の療養後に徳島県畜産会へ就職したあとに徳島県庁畜産課分室に勤務し、畜産コンサルタントとして県下の農業指導にあたり[6]、各種の農業指導論文を発表し、ラジオの農業番組で放送による指導も行っていた[1]。 1982年の定年だったが延期し、1983年に県庁を次長職を最後に退職して[6]、長男の中川力と学習塾を立ち上げるが塾長の力が脳溢血で入院することとなり学習塾は閉鎖になった[1]。1981年から大川隆法と収録した霊言を取りまとめて、1985年に『日蓮聖人の霊言』(潮文社)を編著し出版活動を開始する。1986年「幸福の科学」設立にて顧問に就任する[6]。 大川隆法による霊的調査で過去世(転生)が、下記の人物とされており、法名「善川三朗」の名づけの由来となっている[7]。
家族
著書
脚注注釈出典
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