和田英松
和田 英松(わだ ひでまつ、慶応元年9月10日(1865年10月29日)- 昭和12年(1937年)8月20日[1])は、日本の歴史学者(日本史学)・国文学者。文学博士。位階勲等は従三位勲二等。 経歴備後国沼隈郡鞆町(現在の広島県福山市)にて和田五平・イトの二男として出生。1872年、母の生家に託せられ、照蓮寺の三宅某について習字読書を始める。1873年、備後国深津郡新涯小学校に通学し、櫛野瀬平に学ぶ。1874年、医師内海卓爾について習字読書を学ぶ。1878年、玉井正幹について漢籍を学ぶ。1880年、福山師範学校を受験、不合格。以来、宗家の家事を手伝いながら会計を掌り、もっぱら史書を読む。1884年、帝国大学文科大学古典講究科入学。帝国大学在学中、本居豊穎から『古事記』、飯田武郷から『日本書紀』、木村正辞から『万葉集』、小杉榲邨から『古語拾遺』『古史徴開題記』、久米幹文から『大鏡』『栄花物語』など、大和田建樹から『枕草子』『徒然草』などの古典籍を教授され、小中村清矩から『令義解』『制度通』、内藤耻叟から『続日本紀』『類聚三代格』、松岡明義から『禁秘抄』『職原抄』などによって、法制史や有職故実を学んだ。1888年、同卒業。 1890年、『古事類苑』嘱託編修員。1892年、日本中学および錦城中学校において国文教師嘱託。1893年、師範学校・尋常中学校・高等女学校国語科教員の免許状を取得。『平安通志』嘱託編纂員。1895年、東京帝国大学史料編纂助員となる。1898年以降、宮崎道三郎の提唱によって始められた「令集解」の校訂事業に、佐藤球、幣原担、中田薫とともに従事(ただしこの事業は宮崎の公私の故障によって中止となった)[2]。1899年、史料編纂助員依願免職。学習院教授。1900年、東京帝国大学史料編纂員。1902年、國學院講師を嘱託。1907年、史料編纂官に就任。史料編纂掛勤務の間、『大日本史料』第1・第2・第3・第4・第5篇の編纂にあたった。1918年、『皇室御撰解題』(『列聖全集』)により帝国学士院恩賜賞を受賞。1919年、東京高等師範学校講師嘱託[3]。1920年、帝国学士院より帝室制度の歴史的研究を嘱託。1921年、「朝儀ニ関スル典籍ノ研究」により、文学博士の学位を受けた[4]。1924年、臨時御歴代史実考査委員会委員。1929年、二松学舎専門学校教授嘱託。国宝保存会常務委員。1931年、帝国学士院会員[5]。東京帝国大学文学部講師嘱託[6]。史学会評議員。1933年、東京帝国大学史料編纂所退官[7]、同嘱託となり、従三位勲二等に叙された。1937年1月、御講書始に『日本書紀』を進講、同年8月東京にて病歿。享年73。 著書単著
編著
共著
校訂
論文
挿話和田は書物をこよなく愛した蔵書家であった。史書を好み、在郷時には頼山陽の『日本外史』などを読んでいたという。面白いことに、和田は古典講習科に入学するまで『徒然草』を知らなかったという。古典講習科在学中、「和本は軽くて歩きながらの勉強に」都合が良いといって、通学時も本を手放すことはなく、「読みたかった本や、珍しいものが手に入った時には、読みながらいつのまにか家についていた」という。 だがその蔵書は関東大震災に際し、灰燼に帰してしまった[8]。深い嘆きと悲しみにくれる中、和田は『古事類苑』を筆頭に蔵書の復興に取り掛かったという。『古事類苑』は日本の制度・社会・文物など諸分野に関する類書である。和田の学問の根底が国学にあったことを窺わせる。 参考図書
脚注
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