和智 治郷(わち はるさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。備後国の国人である和智氏の一門で、毛利氏の家臣。
生涯
具体的な系譜は不明だが、備後国三谿郡吉舎[注釈 1]の南天山城を本拠とした国人である和智氏に生まれる。
弘治3年(1557年)9月18日、毛利氏の五奉行である赤川元保、粟屋元親、児玉就忠、国司元相、桂元忠から周防国玖珂郡岩国において10貫文の地を与える旨の打渡状を発給される[注釈 2][1]。
天正4年(1576年)に死去[3]。嫡男の由郷(生右衛門)は早世しており[3]、同年9月26日に嫡孫の元次が「中尾姥」の死後に家督と所領を相続することを毛利輝元に認められた[4]。
脚注
注釈
- ^ 現在の広島県三次市吉舎町。
- ^ 治郷に与えられた10貫文の地の内訳は、①源ゑい抱えの「おくやた」の田1段600文、②同じく源ゑい抱えの「おそ川」の田2段1貫600文、③孫六抱えの「南大ら」の田4段小3貫文、④彦左衛門の「あそう田」の田3段2貫400文、⑤孫次郎の「あそう田」の田2段800文、四郎丸の畠3段2貫文[1]。
出典
- ^ a b 『閥閲録』巻131「和智孫九郎」第1号、弘治3年(1557年)9月18日付け、和智信濃守(治郷)殿宛て、赤川左京亮(元保)、粟屋右京亮(元親)、兒玉三郎右衛門(就忠)、國司右京亮(元相)、桂左衛門大夫(元忠)連署打渡状。
- ^ a b 『閥閲録』巻131「和智孫九郎」家譜。
- ^ 『閥閲録』巻131「和智孫九郎」第5号、天正4年(1576年)9月26日付け、和智藤四郎(元次)殿宛て(毛利)輝元書状。
参考文献