呉匡
呉 匡(ご きょう、生没年不詳)は、中国後漢末期の人物。何進配下の武将。兗州陳留郡の人[1]。 略歴光熹元年8月29日(189年9月22日)、主君の何進が、宦官の張譲らによって殺害される[2]。呉匡はこの仇を討つため軍勢を率い、宮門を破らんとするが、張譲らは少帝弁と陳留王(後の献帝)を連れて逃走する[3]。 そこで呉匡は標的を、何進の異母弟の何苗に向ける。呉匡はかねてから何進と同調しない何苗を恨み、彼が宦官と結託していると疑っていた。呉匡が軍中に「大将軍(何進)を殺害したのは車騎将軍(何苗)である」と触れを出すと、何進に恩ある士卒たちは心を一つにし、ついに朱爵門の下で何苗を殺害した[4]。 その後、何進・何苗配下の兵たちは董卓によって併呑されるが[5]、呉匡の動向は不明。従子の呉懿(呉壹)は劉焉に随行して益州に入り、後に蜀漢の重臣となった。呉匡の子の呉班も蜀漢で彼に次ぐ地位に上ったという[6]。 小説『三国志演義』では第3回で登場。史実同様に何進の仇討ちと称して、何苗殺害を扇動する。 出典脚注 |