君が代丸君が代丸(きみがよまる)は、1922年から1945年にかけて、日本統治時代の朝鮮の済州島と大阪市を結んでいた貨客船。運航者は尼崎汽船部(のちの関西汽船)で、君が代丸と第二君が代丸の2隻が存在した。当時、日本と朝鮮半島を結ぶ航路としては、関釜連絡船以外で数少ないものであった。 君が代丸「君が代丸」は、1891年にオランダで建造された669トンの船「スワールデクールン」(Swaerdecroon)で、尼崎汽船は1906年に購入後、朝鮮航路で運用されていたこの船を1922年に済州航路に投入した。しかし1925年9月、航行中に台風と遭遇して、人命を優先して済州島に座礁させられた後、貨物船に改造されて九州航路で運用されている。1943年に関西汽船の所有となる。1945年5月23日に大分県姫島付近で、アメリカ軍の飢餓作戦により敷設された機雷に接触して沈没した[1]。 第二君が代丸「第二君が代丸」は尼崎汽船が座礁した「君が代丸」の代船として1925年に購入した、919総トン、全長62.7メートルの船である。今日「君が代丸」として語られるのはこの「第二君が代丸」である。 前身はソビエト連邦政府から購入した軍艦「マンジュール」(ru)で、帝政ロシア時代の1886年に建造された排水量1224トンの砲艦であった。日露戦争期には太平洋艦隊所属艦として中立の清にいて、武装解除されていた。日露戦争後には戦列復帰して、ロシア革命後にはソ連海軍でも使用されていた。なお、仁川沖海戦で沈んだ「コレーエツ」(en)は同型艦。 購入後に大阪で貨客船へと改装し、1926年に大阪-済州島間に就航した。元軍艦ということで、船首に衝角が突き出した商船としては特異な姿であった。「第二君が代丸」は既に船齢40年と老朽船の部類に属したが、その後約20年間就航した。1945年4月、安治川付近にあったところをアメリカ軍の空襲を受け沈没した。一方、アメリカ海軍の公式年表によると、6月1日の大阪大空襲の際にB-29爆撃機により撃沈となっている[1]。 航海大阪と済州島の間はおよそ2日の船旅で、大阪を朝出港すると済州島には翌日の夕方に到着するスケジュールであった。そのまま2日かけて済州島を周回して合計11か所に寄港した。しかし接岸できる岸壁はなかったため、艀による連絡に頼っていた。 船には甲板上の上等船室と甲板下の下等船室があった。乗船すると米飯が提供され、麦飯が普通だった当時の済州島民は驚いたという。しかし下等船室には多くの旅客と荷物が詰め込まれており、大変不潔な環境[2]であったという。 エピソード
脚注
参考文献
関連書籍
関連項目
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