吉良満義
吉良 満義(きら みつよし)は、南北朝時代の武将。信濃国守護。三河国西条城主。 生涯元弘の乱で倒幕の兵を挙げた足利尊氏に従い、京都の六波羅探題攻撃に参加。倒幕後に建武の新政が開始されると、足利直義に従い関東に下向し、建武元年(1334年)正月には関東廂番六番頭人に任命された[注釈 1]。 建武2年(1335年)2月、信濃国で北条氏残党が活動を始めると、これを鎮圧するため、一族の吉良時衡を信濃へ派遣した[注釈 2]。時衡は信濃守護・小笠原貞宗と共に軍を指揮したが、鎮圧は成功せず北条時行の武蔵国進出を許してしまい、これが鎌倉陥落へと繋がる(中先代の乱)。乱が勃発した時点での満義の居所は不明[注釈 3]だが、以降、延元元年(1336年)の南北朝の分裂までの間、尊氏・直義に従い各地を転戦する。 延元3年/建武5年(1338年)1月の美濃国青野原の戦いに参加した後、興国元年/暦応3年(1340年)から翌年にかけては信濃守護職に就いていたという[注釈 4]。興国5年/康永3年(1344年)3月、幕府引付方の一番頭人に就任し、直義の政務を補助する。直義が満義に寄せる信頼は非常に厚く、直義の嫡男である如意丸は、正平2年/貞和3年(1347年)満義の宿所で誕生している[2]。また、同じ頃、陸奥国へ赴いた吉良貞家・満家父子の領地であった吉良東条を接収している[注釈 5]。貞和5年(1349年)、直義の命により、光厳上皇を警固している[3]。 観応の擾乱では、終始直義側に立ち[4]、尊氏から満義・満貞父子は「吉良荘の凶徒」と呼ばれる[注釈 6][5]。正平7年/観応3年(1352年)2月に直義が没した後も容易に尊氏には降らず、数年にわたり南朝に属して抵抗を続けた。その後、嫡男・満貞と袂を分かち[注釈 7]北朝に帰順。 しかし近年では、満義は尊氏に与していたのではないかという見方もでてきている[3]。1351年(観応2年)正月15日に、直義方の桃井直常と、足利尊氏・足利義詮・高師直らの軍勢が京都で激突した際、尊氏は満義(左京大夫)の宿所(二条京極千手堂)に陣を構えており[3]、このとき満義は尊氏の陣営にいたものと思われる[6]。翌16日に尊氏が丹波に逃れると満義の宿所は焼失してしまう。このように吉良氏は父子で陣営が割れ、1351年(観応2年)7月30日に足利直義が京都を脱出し北陸へ向かった時も、満貞は従ったが満義はそのメンバーの中には見えていない。満義は直義方としては確実なところでは見えておらず、前述の尊氏が進路妨害を予想していた「吉良荘の凶徒」も吉良満貞に従う人々のこととみられる[7]というものである。 正平10年/文和4年(1355年)に南朝軍が京都を占領した際は、近江国に下向していた後光厳天皇の警備を尊氏から任されている。翌年の2月18日には、北国の敵方が山門の悪僧とともに乱入する危険性を奏上するなど、京都内外で天皇と直結した活動をする満義の姿が見られる。この時期の満義は右兵衛督[注釈 8]の官途や四位の位階を持ち、牛車の使用を許され、昇殿を認められており、これらの事情と関係があると思われる[8]。 正平11年/延文元年(1356年)9月23日、死去[1]。三河国吉良荘(現西尾市)にあったとみられる塔頭から「寂光寺殿」と称された。晩年は京都東福寺・三河国実相寺(臨済宗聖一派)の仏海禅師(一峰明一)と緊密な関係にあったらしく、仏教に深く帰依していた[9]。 脚注注釈
出典参考文献
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