吉田勝也
吉田 勝也(よしだ かつや、1939年2月3日 - )は、山口県出身の元騎手。 経歴1950年代1957年に阪神・田之上勲厩舎からデビューし、4月7日の京都第3競走障害5歳以上60万下・ローラル(8頭中8着)で初騎乗[1]を果たすが、1年目の同年は0勝[2]に終わる。 2年目の1958年には4月6日の京都第3競走4歳未勝利・ヒウガイチで初勝利[3]、7月19日・20日の小倉で初の2日連続勝利[4]を挙げる。同年には初の2桁となる11勝[2]をマークし、1966年まで9年連続2桁勝利[2]を記録。 3年目の1959年には7月11日の小倉で初の1日2勝[5]を挙げるなど初の20勝台となる20勝[2]、1960年には夏の小倉戦8勝[6]を含む13勝[2]をマーク。 1960年代1963年には後に「九州産馬の天皇賞」と形容される[7]霧島賞をニシモロで初めて制し[8]、秋の小倉戦8勝[9]を含む12勝[2]をマーク。 1964年から1966年には霧島賞で3年連続出走のヒウガチエリーに騎乗し、1964年は6頭中5番人気ながら51㎏で2着、1965年と1966年には共に57㎏のトップハンデを背負って制し連覇[10] [8]。ヒウガチエリーでは1965年の小倉記念で2着に入った[10]。 1967年はデビュー以来10年ぶりの0勝に終わったが、1968年には2年ぶりの2桁となる18勝をマークし、1978年まで11年連続2桁勝利を記録[2]。 1970年代日迫清厩舎に移籍した1970年にはワイエムホマレで重賞昇格前の小倉3歳ステークスを制し[11]、牝馬セブンヤングで読売カップ(秋)3着[12]に入るなど、11年ぶりの20勝台となる22勝[2]をマーク。 1972年には5月7日の京都第7競走4歳オープンでは桜花賞の前哨戦として出走したキョウエイグリーンに騎乗して勝利し[13]、自己最多の32勝[2]をマーク。 1973年にはキョウエイアリスで1月4日の京都第8競走近畿放送紅梅賞をキシュウローレルの3着[14]とし、ホウシュウエイトでは毎日杯を制して自身唯一の重賞勝利[15]を挙げ、神戸新聞杯2着[16]、菊花賞ではタケホープ・ハイセイコー・イチフジイサミに次ぐ4着で関西馬最先着[17]と健闘。 1974年には吉田三郎厩舎に移籍し、姓が「吉田」になった1976年まで7年連続20勝台を記録[2]。 1976年のCBC賞ではハンピンオーで6頭中5番人気ながらニシキエースを抑えてシルバーランドの2着[18]に入り、ハンピンオーでは1977年1月30日の京都第9競走淀短距離ステークスでウラカワチェリー・ロングホークを抑えて勝利し[19]、京都記念(春)ではエリモジョージを抑えてテンポイント・クラウンピラードに次ぐ4着[20]、阪急杯では3着[21]に入った。 1978年にはグレートタイタンで3勝を挙げたほかに菊花賞に騎乗し[22]、1979年には4勝と12年ぶりの1桁に終わったが、1980年には2年ぶりで最後の2桁勝利となる22勝をマーク[2]。 1980年代1980年にはカワチハートで東京優駿に騎乗し12着に終わるも皐月賞馬ハワイアンイメージには先着し[23]、グレートタイタンでは朝日チャレンジカップではアグネスレディー・ケイキロクのオークスに2頭の間に入る4着[24]であった。 1983年の小倉大賞典では12頭中11番人気のメイショウキングで2着[25]に入り、1984年には17年ぶりに0勝[2]に終わる。 1985年1月19日の京都第4競走4歳新馬ではハッピールイスで勝利するが、障害転向前の同馬にとって平地での唯一の勝利となった[26]。 1986年には5月18日の阪神第9競走野苺賞をフェートノーザンで逃げ切ったのが最後の勝利となり、7月5日の中京第3競走4歳未勝利・センターヒーロー(12頭中9着)を最後に現役を引退[27]。 騎手成績
脚注
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