吉成 信貞(よしなり のぶさだ)は、江戸時代後期の水戸藩士。
家系
本姓は坂上氏。白河氏[要曖昧さ回避]の家臣に陸奥国三春城主田村氏庶流の吉成氏あり(ただし、本家の田村氏には平氏説がある)。佐竹氏の家臣を経て、水戸藩に仕官する。
- 吉成氏系譜
- 田村義顕-田村行顕-田村補守-吉成政房-吉成清信
生涯
寛政9年(1797年)、水戸藩士・吉成信友の子として誕生。
大竹雲夢に学問を学び、のちに藤田幽谷の門下となった[4]。剣・槍・銃・射の武術にも優れた[4]。文政4年(1821年)に家督を相続した[1]。小普請組を経て、馬廻組、進者番に進む[1]。徳川斉昭の水戸藩主襲封問題においては、斉昭派となった[1]。天保10年(1839年)、郡奉行となり、大子陣屋に住む[1]。藩の天保の改革の際には斉昭の側近として活躍し、主に民政の面で尽力[4]。特に天保検地の実施、秋成新田(現・茨城県水戸市)の開拓、那珂湊(現・茨城県ひたちなか市)の大火対策などに治績を収めた[4]。弘化元年(1844年)に斉昭が致仕となると、その宥免に奔走し、逼塞・謹慎・蟄居の難に遭った[1]。
嘉永3年(1850年)、死去。
明治40年(1907年)、正五位を追贈された[5]。
系譜
著作
- 『吉成信貞時務策』
- 『慎亭封事』
- 『歎願始末』
- 『禁錮中雑録』
- 『南園遺稿』
伝記
- 仲田昭一『吉成又右衛門信貞 : 烈公を支えた郡奉行』〈水戸の人物シリーズ 第4集〉、水戸史学会、1988年。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j 『三百藩家臣人名事典 2』「吉成又右衛門」456頁。
- ^ 『茨城県大百科事典』1068頁では「1798年」。
- ^ a b 『明治維新人名辞典』「吉成又右衛門」1072頁。
- ^ a b c d e f g 『茨城県大百科事典』「吉成又衛門」1068頁。
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.24
参考文献
- 茨城新聞社編『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 2』新人物往来社、1988年。
関連項目