司馬道子司馬 道子(しば どうし、興寧2年(364年)- 元興元年12月26日[1](403年2月3日))は、東晋の皇族・政治家。東晋の第8代皇帝簡文帝の末子(第7子)で、第9代皇帝孝武帝の末弟。字も道子。 生涯初め琅邪王となり、次いで会稽王となる。兄の孝武帝からの信任が厚く、政敵の謝安を追い落とすなどしたことにより、司徒・揚州刺史などの要職を歴任した。兄帝を補佐していたが、やがて兄帝が酒に溺れて政務を省みなくなったため、実権を預けられて専権を振るった[2]。しかし司馬道子は暗愚で兄帝同様に酒色に耽る事も少なくなかったといわれる[2][3]。兄帝が張貴人により暗殺された際も、兄帝の死因を調べず張貴人に罪を問うことも無かった[4]。 甥の安帝のときには太傅となり、未だ幼い皇帝の摂政として国政を取り仕切った。司馬道子の側近に王国宝がいたが、かつて道子は王国宝と不仲であったにもかかわらず、政権を掌握すると再び旧交を取り戻して2人で権力を欲しい侭にした[5]。道子は豪奢を好む性格で国庫を傾け、側近の王国宝は北府軍の王恭から軍権を奪おうと画策したため、この専制に不満を抱いた北府軍の王恭と西府軍の殷仲堪・桓玄により反乱を起こされ、君側の奸を除く事を名目で王国宝の排除を要求し、道子は要求に屈して王国宝を斬殺した[6]。だが王恭は殷仲堪らと共に道子の排除も画策し、北府軍と西府軍が建康を目指して攻めてくると[6]、世子の司馬元顕に実権を譲って自らは酒に逃避した[7]。 以後は司馬元顕が専権を振るうが、やがて酒色が過ぎた司馬道子は隆安3年(399年)に病に倒れ、これを機に人望も能力も無い道子を排除しようとした元顕の画策で司徒・揚州刺史の職を解任されて全て元顕が引き継いだ[8]。同年の孫恩の乱では慌てふためき、鎮圧するために北府軍の劉牢之に出兵命令を下している[9]。 元興元年(402年)3月、桓玄の反乱によって建康が陥落すると司馬元顕は殺され、司馬道子自身は捕縛される。そして安成郡に移送される途上、同年12月庚申(403年2月3日)に暗殺された[10]。死因は毒殺である[11]。享年39。 宗室
子孫脚注
参考文献 |
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