厚木宿厚木宿(あつぎしゅく)は、現在の神奈川県厚木市に位置し、大山道(矢倉沢往還、現在の国道246号)、八王子道(現在の国道129号)の交わる宿場町[1]。相模川水運の要衝として多くの人や物が集まり発展を遂げた。江戸時代には、庶民の間で流行した大山参りの参詣者で大いに賑い、明治時代初期には約30軒の旅籠があったとされる[2]。 歴史史料の中で厚木という名前が最初に登場するのは 1338年(建武5年)の夢窓疎石書状である。室町時代、厚木は鎌倉にある2つの寺院の所領であったとの記録が残っているが、当時の厚木の範囲は明らかとなっていない。現在の厚木市街地にあった厚木宿の歴史は、戦国時代の後北条氏の関東地方支配の発展に伴って始まったと考えられる[3]。 後北条氏の関東地方の支配拡大に伴って、本拠地である小田原を中心とした交通網である「小田原道」が造られていく。厚木宿はやはり現在の厚木市内にあった下荻野新宿、そして相模川対岸の現在の相模原市にあった当麻宿とともに、宿場として成立したと伝えられている。また、発掘調査の結果からも16世紀前半には厚木宿が成立したと考えられている[4][5][6]。 交通の要衝である厚木は、街道の整備、宿場の成立とともに、市場が発達していく。まずは荻野新宿で市場が成立したが、続いて厚木宿でも市が成立する。厚木で市場が成立したのも戦国期の後北条氏の時代であると推定されている。当初、相模川の水害にしばしば悩まされた厚木よりも、荻野新宿の方が賑わっていたものの、交通の要衝である17世紀後半には厚木宿は発展し、荻野新宿の賑わいを大きく上回るようになった[7]。 当初は市場町の性格が強かった厚木宿は、17世紀末には大山街道の宿場町として大きく発展する。諸街道が交わり、相模川の水運にも恵まれた厚木宿は多くの商人たちが集まり、近江商人も進出して商業都市として賑わいを見せた。江戸時代後期に厚木宿を訪れた渡辺崋山は厚木宿のことを「厚木の盛んなること都ことならず」と評した[8][9]。 明治となって東海道本線の開通によって、東海道線沿線に商人たちの多くの活動拠点が移っていき、また、これまで大山街道を利用してきた大山参詣の人々の多くも、東海道線で平塚へ向かい。そこから伊勢原、大山へ向かうようになった。このような中で、厚木は交通の要衝であることを生かした宿場町としての繁栄から、相模川の川遊びや花街での遊興客を東京、横浜から呼ぶ形で客を集める街へと変化していった[10]。 名所・旧跡
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脚注
参考文献
外部リンク
座標: 北緯35度26分35.17秒 東経139度22分10.78秒 / 北緯35.4431028度 東経139.3696611度 |
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