南部利幹
南部 利幹(なんぶ としもと)は、江戸時代中期の大名。陸奥国盛岡藩の第6代藩主。官位は従五位下・信濃守、大膳亮。 略歴元禄2年(1689年)、第4代藩主・南部行信の4男として誕生。初め、父の命令により三戸氏を称した。宝永3年(1706年)1月5日、兄で先代藩主の信恩が死去したため、末期養子として家督を継いだ。同年1月15日、5代将軍・徳川綱吉に御目見する。同年12月18日、従五位下・信濃守に叙任する。 宝永5年(1708年)、荒廃した白山神社の再興のため、本殿(県指定有形文化財)を勧請する[1]。 領内の銅減産も重なって、盛岡藩では財政難が進行し、江戸の借財が10余万両にまで膨らみ、参勤交代費用にも窮する事態となった。これにより、享保8年(1723年)には家老以下を更迭し、諸役人を減員する倹約政策を断行して一定の効果を得た。しかし、他方では強引な政策に家臣の不満が高まった。 享保10年(1725年)に死去し、跡を養子の利視(兄・信恩の次男)が継いだ。また、次男の南部信起は家格寄合席の旗本となった。 系譜
脚注参考文献
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