南桂子
南 桂子(みなみ けいこ、Keiko Minami、1911年2月12日 - 2004年12月1日)は、富山県射水郡出身の版画家(銅版画)。夫は版画家の浜口陽三。本名は濱口 桂子(はまぐち けいこ)[1]。 少女や鳥や樹木を題材とした詩的な作品で知られる[2]。戦後日本を代表する銅版画家である[3]。 経歴![]() 祖母の節子は科学者の高峰譲吉の妹である[4]。父親の南達吉は東京帝国大学法科大学(現東京大学法学部)を卒業して南家の家督を継いだ人物である[4]。母親のきよは日本女子大学国文科で学んだ歌人である[4]。 1911年(明治44年)2月12日[1]、富山県射水郡下関村(現高岡市中川)の地主の家に生まれた(三女)[4]。母親は南が幼いころに亡くなったため顔も知らず、継母に育てられたうえ、12歳の時には父親が急死した[5]。こうして早くに両親を亡くしたことから、高岡市中川で親族によって育てられた[4]。1924年(大正13年)に富山県立高岡高等女学校に入学し、1928年(昭和3年)に卒業した[1]。富山では一度目の結婚を行って子供を儲けた[5]。 太平洋戦争後の1945年(昭和20年)、34歳の時には長男とともに[6]上京[1]。佐多稲子の紹介で作家の壺井栄に童話を[1]、洋画家の森芳雄に油絵を学んだ。現在、南の童話を収録した本が出版されている[7]。1949年(昭和24年)には第13回自由美術展に油彩画「抒情詩」を出品し、森芳雄のアトリエで後に夫となる版画家の浜口陽三と出会った[1]。1954年にフランス・パリに渡ると、フランスでは浜口と暮らした[1]。40歳を過ぎてから銅版画の世界に入り、ジョニー・フリードランデル版画研究所でアクアチントを学んだ[1]。1955年には自由美術家協会会員に推され、1956年には「風景」がフランス文部省に買い上げられた[1]。 1957年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)のクリスマスカードに「羊飼いの少女」が採用され、1958年にはユニセフによるグリーティングカードに「平和の木」が採用された[8][1]。このグリーディングカードは200万枚以上が発行され、2度増刷されている[8]。1964年にはユニセフの1966年版カレンダーに「子供と花束と犬」が採用された[8]。1970年に出版された谷川俊太郎の詩集『うつむく青年』では、ペン画による挿絵や装画を手がけた[8]。谷川は「銅のフェティシズム 南桂子さんに」という詩を詠んでいる[8]。1968年には親交のあった朝吹登水子らが翻訳を担当した『世界文学全集 46 ボーヴォワール/デュラス』(講談社)で挿絵8点を手掛け、1969年に出版された福永武彦の『幼年 その他』(講談社)でも挿絵を手掛けている[8]。 1961年から1981年まではパリの画廊と専属契約を交わしている[1]。1982年には帝国ホテルの全客室に南の銅版画が飾られ、1992年に創刊した帝国ホテルの情報誌「IMPERIAL」では1号から13号まで連続して南の作品が表紙を飾った[8]。2011年時点でも一部の客室には南の作品が飾られている[8]。1981年にはパリからアメリカ合衆国のサンフランシスコに移り[1]、1984年には日本版画協会名誉会員に推挙された。1996年に日本に帰国[1]。1998年には浜口陽三の作品を常設展示する「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」が開館し、南の作品の所蔵も行っている[1]。2000年には夫の浜口陽三が死去。2004年、心筋梗塞により東京都内港区の病院で死去した[1]。93歳[1]。 展覧会個展・二人展
その他
所蔵
日本国内
日本国外
作品集
脚注
参考文献
外部リンク |
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