十文字美信
十文字美信(じゅうもんじ びしん、1947年3月4日 - )は、日本の写真家、CMクリエイター。元多摩美術大学教授。 神奈川県横浜市出身。1970年代から、広告写真を手がけながら並行して作品集発表を行っている。 来歴1947年横浜生まれ。20歳のとき職場で「暗室」の文字を見て、写真家になろうと決意[1]。 1965年、神奈川県立神奈川工業高等学校木材工芸科を卒業し、神奈川県立工業試験所に就職[2]。 1968年、試験所を辞め、写真を志す。東京綜合写真専門学校に入学するも、2ヶ月で退学。六本木スタジオで働き始め、ライティング(照明技術)を学ぶ。 1971年、アシスタントを辞め、フリーの写真家になる。持ち金の大部分を使ってカップラーメンと即席焼きソバを買い込み、ひとまず食うには困らない環境を作った[3]。 アシスタント時代に培った人脈から、ファッション誌や週刊誌の撮影仕事に携わったりアーティストのレコード・ジャケットの撮影なども手掛ける。 1974年、処女作品シリーズ「Untitled[4] (首なし)」がニュー・ジャパニーズ・フォトグラフィ展[5](ニューヨーク近代美術館主催)に招待出品されて、脚光を浴びる。 70年代は、身近な人間や自らの夢や記憶をモチーフにした作品が多い。 眼鏡を外して裸眼で撮影した「近眼旅行」、自殺者が最後に見る風景をテーマにした「グッドバイ」などもこの時代の作品である。 80年代になると、対象が「自身の記憶」から「人間」へと移行。ハワイの日系一世たちを撮影した代表作「蘭の舟」を制作する。 同名の写真集『蘭の舟』(1981) で伊奈信男賞を受賞。 インドシナ半島北部山岳地帯に住み、犬祖神話をもつヤオ族を、写真と文章でドキュメントした『澄み透った闇』(1987)は、 写真というジャンルにはおさまりきらない十文字独自の世界である。 80年代の後半から90年代にかけては、日本の文化や日本人の美意識に興味を移行させる。 尾形光琳の「扇面貼交手箱」の撮影をきっかけに日本の黄金美術に興味を持ち、作品集『黄金 風天人』(1990) を上梓して、土門拳賞を受賞。 日本の伝統建築や庭園の撮影も精力的に行い、『日本名建築写真選集19 桂離宮』(1993) を制作。 『ポケットに仏像No,1』『ポケットに仏像No,2』(1993) をはじめとする3D写真による写真集も制作した。 2000年に入ると、黄金文化の対極にある日本人の美意識「わび」に着目。日本の自然、茶道、そしてそれらが連綿とつながって 現代の「わび」に行き着いていることを視覚的に表現した作品集『わび』(2002) を上梓する。 わびを敷衍した「おもかげ」「ふたたび翳」「風のごとく」などの作品も発表。 2007年に70年代の未発表作品から最近の作品までをまとめた作品集『感性のバケモノになりたい』刊行。この作品集を含めたこれまでの写真活動で日本写真協会作家賞を受賞[6]する。 2004年、多摩美術大学美術学部グラフィックデザイン学科教授に就任。 2008年、プロ用のフィルムカメラではないデジタル一眼レフカメラ「キヤノン EOS 5D Mark II」の動画撮影機能を用いて、処女作「彼岸花」、ショートフィルム「さくら」を、キヤノン EOS 7Dを用いて「おわら風の盆」を発表する[7]。デジタル一眼レフカメラ動画機能を使った最初の映像作家となる。 2009年、撮影時に特殊なアタッチメントを使用して多重露光した作品「FACES」を発表。一瞬を切り取る写真ではなく、数多の時間を合わせて一つの顔にする試み。 2010年4月、自身がオーナーを務めるギャラリー「GALLERY B」を、鎌倉に開館した。 枯れていく花の不思議な造形、色彩に魅かれて「神殿」を発表。 2013年、13世紀に制作された仏像彫刻の解体部分に注目した「残欠」を発表。700年以上前の生々しさを現代に蘇らせる。 2014年、多摩美術大学教授を定年退職。 2015年、作品集『或るもの』を刊行。限定150部全てを無償で配布し、希望者が殺到したため抽選となった。 主な作品集
主な受賞
脚注
関連項目外部リンク
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