北関大捷碑北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)は、文禄・慶長の役の際、朝鮮北部の義勇兵が日本側の加藤清正軍などを撃退したことを記念し、1709年に咸鏡道北部(現在の北朝鮮)に建立されたとされる石碑である。「咸鏡道義兵大捷碑」とも呼ばれる。朝鮮民主主義人民共和国の国宝(en:National Treasures of North Korea)193号。 碑文の内容北関大捷碑には、朝鮮の義勇兵がいかに勇敢に戦ったかが刻まれているが、記載されている戦闘が実際に存在したかどうかについては定かではない。石碑が建てられたのは戦闘があったとされる1592年から100年以上後の1709年であるため、石碑の内容の信憑性は不明である。戦闘当時の双方の記録に、碑文内容に該当する戦闘は記録されていない。
日本への来歴と返還この石碑は日露戦争時、旧日本軍の将校(池田正介少将)が発見して朝鮮半島から日本へ持ち帰ったため、靖国神社の境内に長らく置かれていた。しかし1999年頃から、朝鮮の義勇軍の子孫を中心に返還を求める動きが出始め、2005年6月の日韓首脳会談の際に「返還に向けての調整」とされ、所有者である靖国神社は、もともと北朝鮮の地にあった碑であるため、かねてより「韓国と北朝鮮の間で調整がとれていること」を「返還」の前提としてきたが、同年10月、韓国側そして日本政府の要請もあり、韓国への引渡しを決定し、移送されることとなった[注釈 1]。韓国ではこれをしばらく新国立博物館に展示していたが、2006年の南北の実務協議により、この碑を韓国から北朝鮮に引き渡すことで合意し、同年3月1日に北朝鮮へ移送されている[1][2][3][4]。 来歴理由唯一残っている来歴理由を示す一次史料としては、アジア歴史資料センターに「加藤清正征韓記念碑下付出願の件」(レファレンスコード:C03026852200)が存在している。そこには「自国軍(朝鮮)の忠義を賞賛した碑文を刻んでいる記念碑であり、我が国(日本)にとっては好ましくないものである。よって、六四出征軍においてこれを発見した時に、この碑の存在が日韓両国の親善の妨げになる事が心配になり、建立した人の子孫の承諾を得て持ち帰った」と書かれている。 中村久四郎はこの一次資料とほぼ同じ見解を語っており、「(池田正介少将が)『この紀念碑を永在するのは両国間の感情を害するものであり、石碑の撤去を切望する』との趣旨を碑のあった地域住民達に説いたところ、彼等も少将の至誠に感じ、少将に譲与し、三好師団長の凱旋の折に同師団長に託して東京まで持ちかえったもの」であるとしている。 一方で崔書勉は、「日露戦争時に日本軍は戦利品がなかったため北関大捷碑は恰好の戦利だったのではなかったかと思われる」「彼ら(池田正介少将等)を不愉快にし、また信じたくなかったことであることは想像にかたくない。」としており、北島万次は、「加藤清正が敗北したという史実を朝鮮民族から隔離することを意図したもので、さらに、帝国主義は、自己に都合の悪い史実を抹殺・隠蔽」するために持ち帰ったものではないかと主張している。 参考文献
脚注注釈
出典
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