北沢 恒彦(きたざわ つねひこ、1934年4月22日[1] - 1999年11月22日[2])は、日本の社会運動家。文筆家。元京都市役所職員。
京都市出身。黒川創は息子。北沢街子は娘。秦恒平は弟。
経歴
1952年京都府立鴨沂高等学校在学中、朝鮮戦争への反戦運動に加わり、逮捕[3]。1960年同志社大学法学部卒業[4]。また大学卒業後に製パン業の老舗・進々堂に勤め労働争議を経験。
その後、雑誌『思想の科学』の編集、執筆に関わる。1962年京都市役所勤務。66年京都市中小企業指導所に勤務、診断士となる。
京都ベ平連に参加し、67年まで事務局長を務める。
1984年大阪市立大学大学院経済学研究科修士課程修了[5]。1995年京都市役所を定年退職[6]。京都精華大学で「風土論」を教える。
退職を機会に、元・米屋である自宅の店先を改造し、「編集グループSURE工房」と名づけた[6]。
1999年自殺、65歳。工房は娘の街子に引き継がれた。[7][8][9]
著書
- 『方法としての現場』(社会評論社)1974年
- 『家の別れ ある労働者自立論の出生』(思想の科学社) 1978年
- 『自分の町で生きるには』(晶文社)1981年
- 『隠された地図』(編集グループSURE編、クレイン) 2002年
- 『酒はなめるように飲め』(編集グループSURE) 2004年
共著
翻訳
論文
参考文献
脚注
- ^ 編集グループSURE 2011, p. 292
- ^ 編集グループSURE 2011, p. 319
- ^ 編集グループSURE 2011, p. 297
- ^ 編集グループSURE 2011, p. 300
- ^ 編集グループSURE 2011, p. 312
- ^ a b 編集グループSURE 2011, p. 315
- ^ 日本人名大辞典
- ^ 『現代日本人名録』1987年
- ^ 『隠された地図』年譜