勝俣 久作(かつまた きゅうさく、1901年10月23日[1]- 1967年4月17日[2])は、昭和期の教育者。
来歴
神奈川県箱根町出身で、農家の次男に生まれる。勉強好きで、寺の住職に面倒を見てもらいながら高等小学校に通う。卒業後は代用教員をしながら猛勉強し上京[3]。國學院大学高等師範科に進学し、三矢重松、折口信夫に学び[1]、1924年に卒業[4]し、東京帝国大学史料編纂掛に嘱託として勤務し、1926年3月に退職[5]。同年1月には第43回師範学校、中等学校、高等女学校教員検定本試験に合格[6]し、その後旧制麻布中学校の国語教師を務める[7]。当時の渾名は「サルマタ」[8]。教え子には吉行淳之介や北杜夫などがいる。
戦後、突然学校をやめて事業を始めるも、ことごとく失敗する。会社勤めも上司とうまくいかず、生活は苦しかったが、帰宅すると仕事とは関係ない勉強をし、飲んで帰っても早朝に勉強していた[3]。その後、代々木ゼミナール創設者の一人として副校長[1]兼古文教師となる。
人物
- 本人は学者を志望していたが、高等小学校卒という学歴に劣等感があり、子供の教育に力を入れるようになる[3]。吉行淳之介は「先生のおかげで国語の時間に魅力を感じるようになった」と語る。北杜夫はもともと文学作品に興味がなかったが、作文の時間、勝俣に夏目漱石『夢十夜』の中から3つ4つの短文を読んでもらって面白いと思い、『夢十夜』『草枕』を読んだという[9]。
- 国文学と国史を愛し、折口信夫や金田一京助らが主催する研究会にも参加し、民俗学も学ぶ。1927年(昭和2年)、故郷の歴史を綴った「箱根仙石原村史略」をまとめた[10]。
- 「祖先は山梨の山賊上がり」と冗談をよくこぼしていた。祖先は武田信玄を抱えた「武田軍団」の一人で、軍団の崩壊で勝俣一族は神奈川県の仙石原に逃げ込み、籠付きで生活していたが「食えないから追いはぎもよくやった」というのが酒宴の笑い話[11]。
家族
著書
脚注
- ^ a b c 日本著作権協議会 編『文化人名録 昭和42年版(13版)』日本著作権協議会、1967年、0220補12オ~ク頁。
- ^ 日本著作権協議会 編『文化人名録 昭和43年版(14版)』日本著作権協議会、47頁。
- ^ a b c “(おやじのせなか)勝俣宣夫 学者を志望し、いつも猛勉強”. 朝日新聞: p. 30. (2006年4月30日)
- ^ 「大正13年3月高等師範科卒業生勤務先調査」『國學院雑誌』第30巻第5号、1924年、78-79頁、全国書誌番号:00008272。
- ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『史料編纂所一覧 昭和12年5月』東京帝国大学文学部史料編纂所、48頁。NDLJP:1220481/32。
- ^ 「雑報」『日本教育』第5巻第2号、南郊社、1926年、141頁、全国書誌番号:00018433。
- ^ 中等教科書協会 編『師範学校中学校職員録 昭和13年(第35版)』中等教科書協会、1928年9月20日、35頁。NDLJP:1452159/37。
- ^ 北杜夫『どくとるマンボウ追想記』p.136
- ^ 北杜夫『どくとるマンボウ追想記』p.137
- ^ “親父の生きざま”. 日本経済新聞夕刊: p. 1. (2010年11月19日)
- ^ a b “丸紅、社長に勝俣氏 「参謀の人」時代が請う(NewsEdge1)”. 日経産業新聞: p. 24. (2002年12月19日)