動員戡乱時期臨時条款
動員戡乱時期臨時条款(どういんかんらんじきりんじじょうかん)は、かつて中華民国憲法にその一部をなす「臨時」の修正条項として追加された規定である。「反乱鎮定動員時期臨時条項」あるいは「反乱平定時期臨時条款」(Temporary Provisions Effective During the Period of Communist Rebellion、共産主義者反乱対策臨時措置法)などと日本語訳されることがある。 憲法本文を凍結し1948年から1991年まで修正を重ねながら43年間存続した。 概要国共内戦(中華民国ではこれを中国共産党の反乱と捉える)の勃発を受け、総動員体制(動員戡乱)を敷くため、1948年4月18日に国民大会の第一期大会第一次第十二回会議で制定され、同5月10日に施行された。臨時処置とはいえ、1947年12月の憲法施行から僅か4箇月余りで、事実上の憲法改正を行ったことになる。このため憲法本文を修正せず、この臨時条款が制定された。 当初、この臨時条款の効力は2年間とされていた。しかし、中国国民党は国共内戦に敗北し、台湾に逃れた。その後も臨時条項は台湾で施行され続け、1991年に廃止されるまで5回の修正を重ねた。結果的に臨時条款は暫定的なもののはずの戒厳令という国家緊急権の長期的施行を可能とした。本来は五院の調整役に過ぎなかった総統(大統領)には、国防・治安などの権限が極度に集中した。 また、中央民意代表機関(国会)の選挙も凍結され、中国大陸で選出された議員が半世紀近くも居座り続けた(「万年議員」)。そのため、国民大会や立法院、監察院は「万年国会」と呼ばれた。国民党政府は人権や民主主義よりも、全中国の統治を前提とした中華民国憲法本文の形式的な存続や、大陸で選出された議員の存在を重視し、これを「法統」と呼んだ。そして、民主化要求を「法統」を犯す「法理独立」だと決め付け、弾圧した。 一方、動員戡乱時期臨時条款が台湾の政治体制に与えた影響は、今日も残っている。一つは、憲法改正が修正条項を追加する形式をとるようになり、それが継続していることである。もう一つは、総統が国家安全会議を通して、行政院と共に行政に関与し続けていること(半大統領制)である。 1948年の臨時条款臨時条款の条文には、号数が割り振られていない。
実際には1950年ではなく、1954年3月11日の第1期国民大会第2次会議で延長された。 1960年の改正
1966年の改正2月と3月に改正された。なお、本改正により、初めて条文に号数が割り振られた。 2月改正では第4号から第6号までの全3号が新しく定められ、3月改正では2月改正の第4号以降を第6号からに繰り下げた上で新たに第4号と第5号を追加し、3行目と5行目の間に挿入された。 2月改正の内容
3月改正の内容
1972年の改正
臨時条款廃止の経緯(1990年~1991年)![]() →「万年国会 § 万年国会の解消」も参照
1988年に就任した李登輝総統は1989年1月、第一期中央民意代表に対して高額の年金と引き換えに引退を促す条例を可決させた。しかし、国民党保守派の一部は1989年7月、国民大会の権限を拡大する提案を行い、立法院や国民党改革派、民主進歩党などからの反発に遭った。この改革派と保守派の対立を国民党の「二月政争」と呼ぶ。李登輝総統は同3月21日、政敵である林洋港・蔣緯国を下し、国民大会において総統に再任された。ただし、副総統に選出された李元簇も軍歴を持ち、保守派に属していたため、当時の李登輝はまだ民衆の信頼を得られていなかった。 一方、保守派の動きや国民大会での出席手当の4倍増などを求める万年議員に対して、同3月、台北を中心に学生運動が広がる(「三月学運」)。学生たちは国民大会の解散、臨時条款の廃止と国是会議の開催などを要求した。3月21日、国民大会での総統選挙に再選された李登輝は学生運動の代表を総統府に招き入れ、国是会議の開催を約束し、臨時条款の廃止や国民大会の扱いはそこで議論すべきだと主張した。これを受け、学生運動は翌日に集会を解散した。その後、1991年5月の臨時条款廃止と民主化・憲法改正に向けた動きが始まった。 脚注
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