加藤平四郎加藤 平四郎(かとう へいしろう、1854年3月21日(嘉永7年2月23日) - 1935年(昭和10年)3月18日[1])は、日本の政治家。衆議院議員、自由党系官選県知事、甲府市長。 経歴美作国真島郡高田村(のち勝山村、現真庭市)で、岡山藩士・加藤量の四男として生まれる[2]。岡山師範学校卒業後[2]、小学校教員となる。その後、自由民権運動に加わる[3]。国会開設運動に狂奔し、演説会を中止解散させられた腹癒せに、「国安院妨害中止居士」と大書した白木の位牌を造り、弁士一らとそれを水葬に附した逸話などがある[4]。 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙で岡山県第七区に自由倶楽部から出馬し当選。1894年3月の第3回総選挙まで連続3回当選。第4回総選挙で落選したが、1898年3月の第5回総選挙で返り咲き、衆議院議員を通算四期務めた[5]。 第1次大隈内閣の成立により、1898年7月、静岡県知事に登用された[3]。1899年8月、山梨県知事に転じ、土木事業、教育事業を推進した[6]。1901年8月14日、知事を休職となる[7]。その後、1907年(明治40年)4月に甲府市長に就任し1915年(大正4年)8月まで務めている[2]。 甲府市長在任中最大の功績は、1909年(明治42年)から1912年(明治45年)までの4か年に渡る上水道工事を完成させたことである。また、甲府市柳町の初代甲府市役所庁舎(旧梁木学校校舎)を甲府市相生町に新築移転するための工を1914年(大正3年)3月に起こし、1915年(大正4年)10月に完成(竣工2か月前に辞任)させている[要出典]。 脚注参考文献
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