加川良
加川 良(かがわ りょう、本名:小斎 喜弘、1947年11月21日 - 2017年4月5日[1])は、日本のフォークシンガー、シンガーソングライター。 芸名は、加山雄三の「加」、長谷川一夫の「川」、池部良の「良」を組み合わせたものと言われる。 経歴滋賀県彦根市出身。1970年代、アート音楽出版(URCの版権管理会社)に入社する。高田渡、岩井宏、岡林信康、高石ともやらの影響でフォーク・ソングを唄い始め、1970年の「第2回中津川フォークジャンボリー」では飛び入りで「教訓I」を発表し、一躍人気者に(後に、なぎらけんいち「教訓II」や、三上寛「教訓110番」などパロディー作品も発表された)[2]。 アルバム『教訓』(1971年)でURCからデビュー。「こがらし・えれじい」「偶成」を含む『親愛なるQに捧ぐ』(1972年)、中川イサトとのライヴアルバム『やぁ。』(1973年)をたて続けに発表。また1972年、よしだたくろうの代表作『元気です。』に「加川良の手紙」(作詞・加川良、作曲・吉田拓郎)という曲が収録された[2]。 1974年ベルウッドから名作『アウト・オブ・マインド』を発表。1975年中川イサトの神戸市長田区でのオムニバスライヴ『鼻歌とお月さん』のレコーディングに、いとうたかお・大塚まさじ・金森幸介・シバ・西岡恭蔵・長田タコヤキ和承と参加。その後も石田長生らをバックに従えた『南行きハイウェイ』(1976年)レイジー・ヒップとの『駒沢あたりで』(1978年、オレンジレコード)を発表。 1990年代『ONE』、『2』を発表。 1996年には藤井裕(b)、有山じゅんじ(g)、高橋ロジャー和久(ds)のトリオ「TE-CHILI(テッチリ)」をバックにグランジなアレンジで歌ったセルフカバー集『R.O.C.K』を発表。 2016年12月14日に入院し、翌15日に急性骨髄性白血病と診断され闘病中とFacebookで公表[3]。 2017年4月5日午前9時39分、東京都港区の病院で死去。69歳没[1][4][5]。 人物岡林信康が第一線から退いたのち、吉田拓郎と並んで“どちらがBIGになるのか”といわれた時期があったが、拓郎ほどの一般的名声を得ることはなかった。現在では前述の拓郎の曲「加川良の手紙」で歌われた人物として知られている。拓郎がポップに変わっていくのとは正反対に、ストイックに自らの音楽に忠実に、お金にならない歌を歌い続けたのが理由ともいわれている[6]。 「教訓I」の歌詞は大阪・梅田の地下街で手売りされていたガリ版刷りの文集を参考に作られたという[7]。歌詞の内容は発表から40年以上を経て発生した福島第一原子力発電所事故(2011年)や集団的自衛権の行使問題(2014年)に対してもあてはまると加川は考えており、そのため「歌うたんびに新曲だと思えるんです」とも語っている[7]。 出演番組ディスコグラフィーアルバム
オムニバスアルバム
シングル
教訓1
「教訓1」(きょうくんいち)は、加川良が1971年7月20日に発売したシングル。原詩は上野瞭が1967年に発表した「教訓ソノ一」[8]。 映像作品
楽曲提供
その他
脚注
関連項目外部リンク
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