劉瑶章劉 瑶章(りゅう ようしょう、繁体字: 劉瑶章; 簡体字: 刘瑶章; 繁体字: 劉瑶章; 拼音: Liú Yáozhāng; ウェード式: Liu Yao-chang、1897年7月(清光緒23年6月) - 1993年5月28日)は、中華民国・中華人民共和国の政治家。国民政府統治下での最後の北平市長である。直隷省保定府安新県の人。 事績北京大学哲学系を卒業し、ジャーナリストとして『益友報』編輯、南京中央通訊社編輯主任などを務めた。日中戦争が勃発すると、専科学校以上卒業生就業訓練班で訓導員となり、また国民参政会で第2期から第4期まで参政員に選出されている。1938年(民国27年)、国民党中央訓練委員会で主任秘書となり、さらに委員や指導処処長も務めた。この時期には中国国民党中央訓練団党政訓練班第3期で訓練を受けている。1942年(民国31年)、中国国民党中央訓練団高級班第2期で訓練を受けた。1945年(民国34年)6月、国民党第6期中央執行委員会執行委員出されている。[1][2] 1946年(民国35年)10月、河北省臨時参議会議長となり、翌月には制憲国民大会代表に選出された。1948年(民国37年)6月、北平市長兼地方行政幹部訓練団主任に抜擢される。しかし翌年1月、傅作義の北平無血開城に参加した。中華人民共和国では、水利部部長となった傅の下で弁公庁主任、部長助理、水利電力部(1958年に水利部と電力工業部が合併)顧問を歴任した。また、中国国民党革命委員会(民革)中央委員や中国人民政治協商会議全国委員会委員(第2期~第6期)も務めている。1993年5月28日、北京市で死去。享年97(満95歳)。[1][2] 注参考文献
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