利用者:Uryah/個人主義と利己主義{{情報収集中}}{{独自研究の恐れ}}{{正確性}}{{1利用者のサブ/作業ページ}} 利己主義と個人主義
Uryah 2011年6月1日 (水) 10:56 (UTC)、2011年6月1日 (水) 11:04 (UTC)、強調表示。Uryah(会話) 2013年5月17日 (金) 20:51 (UTC) リベラリズムとコミュニタリアニズムリベラリズムとコミュニタリアニズム
Uryah 2011年6月8日 (水) 11:06 (UTC) 現在日本(2004年、2006年、2009年、2011年、2012年時点)の利己主義についての1つ2つの考察
Uryah 2011年6月20日 (月) 11:12 (UTC)
Uryah 2012年1月6日 (金) 13:09 (UTC)、2013年8月25日 (日) 01:13 (UTC)
Uryah(会話) 2012年5月3日 (木) 13:25 (UTC)
Uryah(会話) 2013年12月28日 (土) 03:12 (UTC)、2014年1月4日 (土) 13:25 (UTC) 2008年時点の日本で考える、いま哲学とは何か
Uryah 2011年9月27日 (火) 12:53 (UTC) 1983年時点のアメリカで考える「邪悪なもの」
個人の尊厳個人の尊厳(2013年4月15日 (月) 12:42)によると
Uryah(会話) 2013年8月20日 (火) 12:24 (UTC)
語そのものについてではなく、語を解釈する人の発想について。・「個人主義」という言葉は多義的な言葉なのだそうだ(『西洋思想大事典』2巻 権威→心理学理論 pp.213-223. 平凡社 1990年6月 初版第1刷 個人主義の諸類型、世界大百科事典 10巻 コウフ-コン 平凡社 2007年9月改訂新版 p.318 個人主義)。 ・語「個人主義」そのものについてではなく、語を解釈する人の発想について:
Uryah(会話) 2013年12月30日 (月) 14:16 (UTC)、2014年1月3日 (金) 02:14 (UTC)、2014年5月30日 (金) 22:32 (UTC)、2014年6月1日 (日) 06:25 (UTC)、2014年8月10日 (日) 05:02 (UTC)、2016年8月15日 (月) 12:39 (UTC)、2016年8月15日 (月) 12:51 (UTC) 他人が嫌がっているという事実を無視して行動できる人は、他人と愛情交換をできない人だという説
支配、意思の強制または無理強い
「暴力」とは何か
強制とは何か
「強制して成し遂げる」の反対は「説得して成し遂げる」。説得できなくて(説得する者/側に説得するだけの魅力・能力または道理が(足りてい)なくて)、でもあきらめられないときは、強制・無理強いするしかない。 欲望と強欲「私たちは日々、さまざまな欲望を抱えて生きています」。欲望は「人間が生きていく上での前提だといってもいい」。ただ、「やり過ぎたり、やらなさ過ぎは駄目で、両方の中間が最善」。なぜ強欲は駄目かといえば、「強欲とは、言葉の通り欲張り過ぎで」「周りにとってもよくない状態」だから。「強欲が欲望と違って問題なのは、その程度が過剰だから」で、過剰だとなぜ問題なのかといえば、「それによって、人に迷惑をかける可能性があるから」である。 - いちばんわかりやすい哲学 枻出版社 2016年2月第1刷 p.99
※強欲が当人にとってどうなのかは、周りの人にとってはどうでもいいことだ(冷たい?)。親や先生や親友やパートナーなど、程度・度合に違いはあっても、当人の人生に責任を引き受ける気持ちのある人/立場の人は、「心配する」という形で関与するかもしれない。気持ちも立場にもない人は、何かを与えてきた人にはお礼を返すかもしれないし、譲り合いはお互い様だからするだろうし、気の毒な人がいたら手を差し伸べるかもしれないし、社会で(社会として)解決すべきことには完全な無関心ではいられないけど、そうでない場合、無関係の人には何もしないし、まして、何かを強制しにきた人/奪いにきた人に遭遇したら、払い除けるか、そこから離れる。 Uryah(会話) 2016年3月15日 (火) 12:34 (UTC) 太平洋戦争の経験から、1948年~1953年に日本で目指された個人主義「軍国主義の時代に日本の政治家や思想家たちは、民主主義を圧迫した。したがって、その根本にある個人主義を、いやしむべき利己主義であるとのヽしった。しかし、これほど大きなまちがいはない」。 p.153
「個人主義は、自分であると他人であるとを問わず、すべての人間を個人として尊重する。自分を尊重するのは、自分の人格をたいせつにすることであり、自己の正当な権利を擁護することである」。「自己の正当な権利を主張する者は、同様に、他人の正当な権利を重んじなければならない」。「他人の立場を重んじないで、どうして自分の立場だけを認めさせる資格があろうか。だから、個人主義は、個人の権利を重んずると同時に、個人の責任を重んずる。個人個人がその責任を自覚することによって、すべての社会活動が円滑に行われるようになることを期待する」。 p.156, 157 「社会生活」において「は」、数多ある人々、「その中には、悪い人間もある。したいほうだいなことをして、他人に大きな迷惑をかける者もある」。「それをそのまゝにしておいたのでは、社会生活は成り立たない。そこで、法律があって、犯罪を処罰する。悪い人間を取り締まる」。「同時に、法律上の権利を主張することにだけ急であって、義務を行うことをなおざりにするようであってはならないことは、いうまでもない」。「まして、法律をたてにとって弱い者をいじめ」「不当な利益をむさぼるようなことは、はなはだしい法律の悪用である」。 p.158 人々の中には、「法律で罰せられる心配がなければ、どんな悪いことでもやってのける連中も」いる。「やヽもすれば、見ず知らずの人にぶあいそで、非社交的で、公衆道徳を守らないという」人もいる。しかし、「民主主義の社会では、何よりもまず、だれもが同じ対等の人間として尊敬しあうという気持を養わなければならない。個人の自由の尊さを認識せず、個人の尊厳を自覚しない者は、他人の自由を侵し、他人の人格を傷つけることを意に介しない」。しかし、「みんなの住む社会をできるだけ住みよい、気持ちのいいものにして行くことは、お互の義務である。そのためには、各人がお互の個性を認めあい、自分も他人から不当に自由を束縛されることがないようにすると同時に、自分も他人の自由を尊重しなければならない」。 p.161, 162 「常に真実を語り、真実を実行する誠意と、正義のためには断乎として譲らぬ勇気とを持ち続けなければならない」。「社会生活における民主主義の成否は」「誠意と勇気と持った人々が、多いか少ないかによって決まる」。 p.162 「民主主義は決して単なる政治上の制度ではない。それは、その根本において社会生活のあり方であり、社会生活を営むすべての人々の心の持ち方である」。人々が自身の内に持つ気持ち、価値判断、価値観、哲学がその核心であり、制度はそれを具現化(しようと)したもの/目指そうとした1つの形に過ぎない。 p.146 文部省著作教科書 民主主義 径書房 2015年8月15日 第9刷 ISBN 978-4-7705-0144-8 146~162ページ 第八章 社会生活における民主主義 Uryah(会話) 2016年7月31日 (日) 04:53 (UTC) 他者危害でない限り自由「他者危害でない限り自由」という考え方において、自分は、リバタリアン的だったのかも。ところで、世の中では、強欲者・利己主義者がリバタリアンを自称しているってことない?
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