利用者:Uraniwa/砂場4『大鏡』(おおかがみ)は、平安時代後期の白河院政期[注釈 1]に成立したとみられる紀伝体の歴史物語である。 成立年代の研究古くは江戸後期の伴信友が『比古婆衣』のなかで万寿3年(1026年)の成立としたが、保坂弘司によればこれも万寿2年を数え誤ったものである。
一方、万寿2年以後の成立とする説も多くある。『尊卑分脈』に寂念(藤原為業)が『大鏡』を著したとする記述があったためである。『大日本史』や大石千引『大鏡短観抄』はこれを承けており、後者にはこの説を採った複数の文献が引用されている。
明治時代、荻野由之が『大鏡』のなかに『今昔物語』の影響を受けたと見られる誤謬があること、「藤原道長には諡号がない」と言及したと見られる箇所があること、藤原茂子(白河天皇の母となってから皇后に冊立されたはずである)を皇后として扱っているらしいことの三点を挙げ、本作が白河朝以後の作品であると主張した。藤岡作太郎はこれを受け、後冷泉天皇の誕生、源師房の栄達、禎子内親王の後三条天皇出産(いずれも万寿2年以後)を、予言のかたちで寓意するような記述を指摘して同調した。 1927年(昭和2年)、西岡虎之助が旧来どおりの万寿2年ごろの成立を唱えた。西岡によると『打聞集』(1134年ごろ)に本作が抄録され、すでに裏書があったことを鑑みると、それよりかなり前の作品であると考えられる。しかも後世の作だとすれば本文中に万寿2年以後の官職が多少なりとも混在するはずが、これがほとんどないという。ただ実際には、資料の多い高官はともかく、下級官僚や僧官についての誤謬は見られる。すなわち1933年(昭和8年)、山岸徳平が西岡に反論したところによると、本文中に扶公を山階寺別当、北野三位の子・朝源を律師、明尊を僧正、藤原資国を伊賀前司とする記述などがあり、いずれも万寿2年以後のものである。また先述の藤岡の指摘を顧みた上で、本文に『江談抄』(1104年 - 1108年ごろ)を参照した箇所があると主張し、永久・元永(1113年 - 1120年)ごろの成立を唱えた。同年平田俊春は本作を『栄花物語』と比較し、『大鏡』の方が後の成立であると断定した上で、本文中に「山階道理」(山階寺=興福寺の勢力があまりに強く、非道な主張も通ったこと)について述べた箇所があることから、藤原道長・頼通の時代にはこの道理はまだ見られなかったとして、寛治7年(1093年ごろ)以降、院政時代初期の成立を主張した。
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