利用者:Nux-vomica 1007/sandbox2本稿では日本近代建築史(にほんきんだいけんちくし)について述べる。 西洋建築との邂逅洋式工場と西洋建築技術の移入江戸期の日本は鎖国政策を敷いていた。しかし、日本と西洋の交流は当時も出島を介して細々と続き、蘭学とよばれる西洋的な自然科学の輸入と研究もおこなわれた[1]。ゆえに、開国以前においても西洋に端を発する建築関連の知見は、干拓や埋め立て、測量といった治山・治水にかかわるものを中心に、部分的に移入されていた[2]。 1853年(嘉永6年)の黒船来航と1858年(安政5年)の安政五カ国条約を通して、日本は従来の鎖国政策を廃し、西洋文明と全面的に接触することとなった[1][3]。開国に際して、江戸幕府は国防を増強する必要性を感じ、オランダ海軍のヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケの指揮のもと、造船工場である長崎製鉄所を建設した。設計は技術将校のヘンドリック・ハルデスが担当した[4]。製鉄所の建造は1857年(安政4年)にはじまり、1861年(文久元年)に竣工した[5]。 幕府のみならず、雄藩も西洋の建築技術を移入しようと試みていた。1852年(嘉永5年)より、薩摩藩は西洋の科学技術を国内に導入するための工場施設として集成館を建造していた。当初、これらの施設は木造であったが、1863年(文久3年)の薩英戦争により焼失したため、1875年(慶応元年)に石像の西洋建築として再建された[6]。集成館の設計を誰がおこなったかは不明であるものの、西洋建築への理解の薄さや日本建築の伝統が各所にみられることから、藤森照信は鹿児島の蘭学者の独学によるものであろうとしている[注釈 1]。1867年(慶応3年)にはトーマス・ウォートルスが集成館に紡績所をふくむ4つの洋式工場、奄美大島4か所に洋式の製糖工場を建設した[8]。 これらの工場施設においては、不燃性や頑強性、空間の大型化が求められたため、従来の日本建築には存在しなかった様々な技術が取り入れられた[9][10]。煉瓦組積造はそのうちのひとつである[10]。近代日本における最初期の煉瓦積み構造物として、製鉄に用いられる反射炉がある。幕末期に建造された反射炉としては、築地反射炉・多布施反射炉(佐賀藩)、集成館反射炉(薩摩藩)、那珂湊反射炉(水戸藩)、韮山反射炉(幕府)がある[11]。 また、様々な機械を連結させ設置する近代工場において、柱間を広くするためには梁を太くしなければならない和小屋組は不適であり、細い梁材で大きな柱間を可能とする洋小屋組が導入された[12]。こうした西洋建築技術の導入が円滑におこなわれた背景として、優れた技能を持つ在来手工業者の存在と、新しい知識の伝達をおこなう大工書の存在があった[13]。たとえば煉瓦製造に関して、薩摩藩の集成館事業においては薩摩焼の藩窯・竪野窯の星山仲次[注釈 2]が携わったほか[11]、幕府の長崎製鉄所建造の際は瓦職人が動員された[12]。 明治維新後も西洋建築技術の移入は引き続きおこなわれた。明治政府は、幕府がレオンス・ヴェルニーをはじめとするフランス人技師の指導下で建造していた横須賀製鉄所を引き継ぎ、1871年(明治4年)に横須賀造船所とした。この工事では大規模な煉瓦製造がおこなわれ、観音埼灯台など造船所以外の施設にも流用された。また、目地材のセメントについても輸入品のポルトランドセメントのみならず、石灰などをつかった国産化が模索された[14][注釈 3]。横須賀製鉄所の建築は残っていないものの、横須賀の工事にも携わったエドモン・オーギュスト・バスチャンが手掛け、1872年(明治5年)に竣工した富岡製糸場の設計は、横須賀製鉄所のそれに酷似していることが知られている[17][18]。また、貨幣制度を諸外国の基準に合わせるべく、1871年にはウォートルスの手によって造幣寮が建設された[19]。 文明開化をむかえた日本では西洋を規範とした新たな社会制度が次々とつくられ、工場のみならず、新しい社会に対応するための多くの新たな建築が必要となった[19][20]。こうした時代に重用された外国人技師である「お雇い外国人」に正規の建築教育をうけたものはほとんど存在せず、彼らは建築のほか土木事業、鉱山開発、造船といったあらゆる関連事業を請け負う「何でも屋の技術者」として働いた[21][22]。当時のお雇い外国人の代表格であるウォートルスは先述の鹿児島・奄美での工場建設、造幣寮の建設を成し遂げたのち大蔵省営繕寮に入り、竹橋陣営(1871年・明治4年)、日本初の鉄製吊橋である皇居山里吊橋(1872年・明治5年)を手掛けたほか、1872年(明治5年)には大火で全焼した銀座を再開発する銀座煉瓦街計画を主導した[23]。また、アメリカ人技師のリチャード・ブリジェンスは、1871年(明治4年)に日本最初の鉄道駅である新橋駅・横浜駅舎を建造した[24]。 洋風木骨造近代に造られた洋風建造物には木骨造とよばれる、木造の骨組みに煉瓦や石材を被覆もしくは充填したものがよくみられる。明治初期においては特に充填型の木骨煉瓦造が多く建設された[25]。充填型木骨煉瓦造はヨーロッパのハーフティンバー様式に端を発するものであると考えられており[25]、例としては先述の横須賀製鉄所、富岡製糸場、銀座煉瓦街のほか、旧羅典神学校(1875年・明治8年)などが挙げられる[25][10]。煉瓦のみを構造材とする建築は比較的高度な技術が必要であったものの、1880年代までには全国に普及した。1880年(明治13年)の教育博物館・書籍閲覧所書庫などがその例として挙げられる[10]。 横浜や神戸の居留地においては、幕末期より木骨石造建築が盛んに建造された。特に横浜においては、アメリカ人技師のリチャード・ブリジェンスが横浜イギリス領事館(1869年・明治2年)、横浜駅(1872年・明治4年)、横浜税関(1873年・明治6年)、横浜町会所(1874年・明治7年)といった数々の木骨石造建築を築いた。また、ブリジェンスは、おそらくは工費のかさむ木骨石造の代用として、なまこ壁を用いた洋風建築も建造している。1866年(慶応2年)のイギリス仮公使館や、1868年(明治元年)の築地ホテル館がそうである。ルイ・テオドル・フューレはおそらくこの工法を横浜から持ち帰り、1864年(元治元年)、長崎に大浦天主堂を建立している[26]。 充填型木骨煉瓦造は1891年(明治24年)の濃尾地震を契機としてほとんど廃れたものの、その後も被覆型木骨煉瓦造は、簡易に洋風建築物をつくる手法として残った[25]。北海道においてはアメリカ由来の被覆型木骨造建築が導入され、開拓使本庁舎についても当初は木骨石造で図面が引かれていた。また、小樽においては明治20年代より積極的に洋風木骨造建築が建造された[25][27]。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災の影響により、被覆型木骨造建築も廃れていった[25]。 ベランダコロニアル様式と下見板コロニアル様式安政五カ国条約では、開港場である長崎・神戸・横浜・新潟・函館に居留地を設けることが定められた。これらの居留地は日本の一部でありながら、人口のほとんどを西洋人が占める特殊な地域として成立した[28]。居留地にはベランダコロニアル様式とよばれる住居建築がつくられた[29][注釈 4]。これは、イギリス人がインドにおいてつくりあげた様式を起源とするもので、ベランダを張り出し、その上に深く庇を差し出すことで直射日光を防ぐ目的があった[31]。ベランダコロニアル様式は、広東、香港、上海といった東アジアの開港場や居留地において広く築かれた[29]。1863年に建造された長崎のグラバー邸は日本におけるベランダコロニアル建築の最初期の事例である[29]。 また、日本のもうひとつの代表的なコロニアル建築として、下見板コロニアル様式がある。この様式を特徴づける、板同士を鳥の羽根のように重ね合わせて段差をつける下見板張りの起源はスウェーデンもしくはイングランド南東部にあると考えられており、アメリカを通して日本に伝来した。下見板コロニアル様式は、すでに1868年(明治元年)の東山手十二番館などに見ることができるが、本格的に建設されはじめたのは北海道においてである。新政府は北海道開拓使の設置にあたり、アメリカからホーレス・ケプロン率いる開拓顧問団を招いた。彼らはアメリカの木造建築技術を組織的にもたらし、開拓使本庁舎(1873年・明治6年)や札幌市時計台(1878年・明治11年)などが建造された。開拓使営繕課の技師である安達喜幸はアメリカの建築様式に習熟し、1880年(明治13年)に豊平館を設計した[32]。 擬洋風建築→「擬洋風建築」も参照
日本人の大工棟梁が築いた、洋風建築の意匠を模倣しつつも、伝統的構法を用いた建築のことを擬洋風建築とよぶ。ブリジェンスのもとで築地ホテル館の実施設計と施工を担当したのち、1872年(明治5年)に第一国立銀行を築いた清水喜助は、この様式の先駆者となった。東京に建てられた、清水の和洋を折衷させた奇妙な建築は、当時の市民に強い影響を与えた[33]。築地ホテルや第一国立銀行は錦絵の題材として好んで描かれたほか[34]、地方から東京に来た人間のなかにはこれらの建造物を訪れ、柏手を打ったり賽銭を投げる者もいたという[35]。同じくブリジェンスのもとで学んだ林 1875年(明治8年)の学制施行を通して、こうした擬洋風建築は全国に普及した。新しい時代を象徴する建築を築くため、各地方の大工棟梁は東京や大阪、各居留地などに赴き、洋式の意匠を学んだ[34]。擬洋風建築は長野・山梨・静岡の3県においてもっとも盛り上がる。山梨においては県令・藤村紫朗の積極的な指導のもと、 1878年(明治11年)の地方三新法にもとづき建てられた庁舎建築にも、擬洋風を採用した建築が多い。山梨の東山梨郡役所(1885年・明治18年)や、山形の西村山郡役所および議事堂などが有名である[20]。山形県令の三島通庸は建築事業に力を入れていたことでしられており、漆喰の代わりに下見板で仕上げた擬洋風建築を多く残した。山形におけるこの様式は、松ヶ丘開墾の技術交流などを通して北海道からもたらされたと考えられており、鶴岡の朝暘学校(1876年・明治9年)、山形の済生館(1879年・明治12年)などが例として挙げられる。在来の伝統工法で容易に仕上げることができ、風雪にも強い下見板張り擬洋風建築は明治20年代には各所に広がるも、明治30年代には擬洋風らしい意匠が消え、下見板張りという様式のみが命脈を保つ[39]。擬洋風建築は、西洋建築に習熟した日本人職業建築家が現れる明治20年代末期ごろを境として、急速に衰退することとなる[38]。 日本人建築家の誕生と様式建築の受容工部大学校の創設と日本人建築家の誕生明治初期においては、先に見てきたように、必ずしも建築の専門教育を受けていない外国人技師や、その意匠を表面的に理解した日本人建築技師が、(擬)洋風建築を請け負うことが多かった[40]。こうした事情は、本職の建築家が招聘されたこと、国内に洋風建築について専門的に学べる機関が創設され、日本人の建築家が増えていったことにともない、改善されていく[41][42]。 1870年(明治3年)、鉄道建設技師長のエドモンド・モレルは、大蔵少輔の伊藤博文に対し、近代化事業推進のための建設局をつくり、そこに日本人技術者育成のための教導部を設けるよう提案する[43]。前者は工部省として同年中に開設、後者は工学寮工学校(1877年・明治10年の工部省廃止にともない工部大学校に改称[44])というかたちで1875年(明治5年)に設立される[43][45]。学生の募集は1872年(明治5年)におこなわれ、甲科生(官費生)22人・乙科生(私費生)20人が入学した[44]。 当初、造家学[注釈 6]の専任講師は存在せず、当時工学寮に勤務していたチャールズ・アルフレッド・シャストール・ド・ボアンヴィルらが教師の役割を担った。1872年(明治5年)に測量司として来日したボアンヴィルは、工部大学校講堂(1877年・明治10年)の設計もおこなった。彼は日本に現れたはじめての純粋な職業建築家であり、壁面のめりはりやオーダーの使い分けがはっきりした、ウォートルスには望むべくもなかった正当なネオルネッサンス建築を築いた[48]。しかし、彼が受けた建築教育はアカデミックなものというよりはむしろ伝統的徒弟制度によるものであり[49]、生徒に体系だった教育をおこなうことはできなかった[44]。 1877年(明治10年)に来日し、造家学科の初代教授となったジョサイア・コンドルは、工部大学校の教育を一新させた。サウスケンジントン美術学校とロンドン大学で建築を学んだ彼は、本国イギリスにおいても将来を嘱望される建築家であった。コンドルは様式主義に重きを置く組織的な建築教育を日本に導入し、それまでの教育に不満を持っていた学生もこれに満足した[44][50]。彼は建築家としても働き、開拓使物産売捌所(1880年・明治13年)や東京帝室博物館(1882年・明治15年)、鹿鳴館(1883年・明治16年)、三菱一号館(1894年・明治27年)、綱町三井倶楽部(1910年・明治43年)などを設計している[51][52]。初期のコンドルはクラシック系様式とゴシック系様式を使い分けつつ細部にアジア的様式を用いることを好み、大学を去り、民間建築に積極的に関与するようになってからはジャコビアン様式とネオルネッサンス、晩期には邸宅を中心にあらゆる様式を手掛けるようになった[52]。 1879年(明治12年)11月8日、工部大学校造家学科の第1期入学者が卒業した。すなわち、辰野金吾・片山東熊・曾禰達蔵・佐立七次郎である[44][注釈 7]。 辰野は工部大学校卒業後、公費留学生としてイギリスに渡り、ウィリアム・バージェスの事務所および、ロンドン大学教授のトーマス・ロジャー・スミスのもとで学びを深めた。彼らはいずれもコンドルの師であった。3年間のイギリス留学と1年のグランドツアーを終えた辰野は1884年(明治17年)にコンドルの後任となり、後進の育成に努めた。さらに、彼は王立英国建築家協会に倣い、1886年(明治19年)に造家学会(のちに日本建築学会)を結成する[53][54]。建築家としての辰野は日本銀行本店(1896年・明治29年)、東京駅(1914年・大正3年)などを手掛けたほか、第一銀行京都支店(1906年・明治39年)、日本生命九州支店(1909年・明治42年)などの民間建築も設計した[55]。 片山東熊は宮内庁に職を得て宮廷建築家として働き、京都帝国博物館本館(1895年・明治28年)、東京帝国博物館表慶館(1908年・明治41年)、赤坂離宮(1909年・明治42年)、竹田宮邸(1911年・明治44年)などを手掛けた[56][57]。また、曽禰達蔵は工部大学校を卒業したのち海軍で鎮守府関係の建築をしていたが、三菱に招かれて以降はコンドルとともに、三菱三号館(1896年・明治29年)をはじめとする、丸の内オフィスビル(一丁倫敦)の建築設計を手掛けることとなった。さらに1908年(明治41年)、曽禰は後輩の中條精一郎とともに曽禰中條建築事務所を開設する。この事務所は「戦前における最大の設計事務所」とよばれ、慶応大学図書館(1912年・明治45年)をはじめとする戦前期の多くの民間建築を手掛けた。 官庁集中計画とドイツ風建築銀座煉瓦街計画と鹿鳴館の建設を成功させた井上馨は1886年(明治19年)、東京を西洋都市風に改造する官庁集中計画を発案する。この計画のためドイツから招聘されたのが、ヴィルヘルム・ベックマンとヘルマン・エンデらである[58]。彼らはそれまでの日本建築のイギリス趣味を押し止め、ドイツ流の建築を普及させるべく、建築家および職工のドイツ留学を提案する。これは実現し、妻木 官庁集中計画が凍結されたのちも彼らの主導のもと、着工済みであった建築物の工事はつづき、ドイツ風建築である仮議院(1890年・明治23年)、司法省(1895年・明治28年)、大審院(1896年・明治29年)がそれぞれ完成する[62]。妻木頼黄はほかに東京府庁(1894年・明治27年)、東京商業会議所(1899年・明治32年)、横浜正金銀行(1904年・明治37年)を、河合浩蔵は大阪控訴院(1900年・明治33年)、神戸地方裁判所(1903年・明治36年)、愛国生命(1912年・明治45年)を建設した[63]。 邸宅建築明治中期には、ベランダコロニアル様式と下見板コロニアル様式が融合した「下見板ベランダコロニアル様式」が現れる。神戸で建築に従事したアレクサンダー・ネルソン・ハンセルはこの様式を好んだことで知られ、1902年(明治35年)竣工のハッサム邸などを設計している[64]。しかし、ベランダコロニアル建築は、熱帯にあわせてつくられた建築であり、冬に冷え込む日本の気候にはあまり適合していなかった。そのため、ハッサムの仕事を最後として、こうした建築は姿を消す[65]。その後、洋館のベランダ部分は屋内に取り込まれるようになり、たとえば1907年(明治40年)のハンター邸においては、ベランダは屋内に取り込まれ、サンルームのようになっている[66][67]。 また、明治期には外国人だけでなく、華族のような日本人の特権階級も、こうした洋風邸宅を構えるようになった。たとえば、1872年(明治5年)の毛利邸や、1877年(明治10年)の西郷従道邸などが初期の例として挙げられる[68]。ジョサイア・コンドルも、1884年(明治17年)の有栖川宮邸・北白川宮邸にはじまり、岩崎久弥邸(1896年・明治29年)や古河邸(1917年・大正6年)といった多くの邸宅を手掛けている[69][68]。コンドルの薫陶を受けて育った日本人建築家も同様に邸宅建築を多く築いた。たとえば、辰野金吾の渋沢栄一邸(1888年・明治21年)や、片山東熊の仁風閣(1907年・明治40年)などがそうである[68][70]。 当時の日本の上流階級は、洋館を応接用の建物として用いて、普段の生活は併設された和館でおこなうことが多かった。和館と洋館を併置する当時のこうした構成は、「和洋併置式邸宅」と呼ばれる[71]。彼らにとって、伝統的な書院造の和館は旧幕時代以来のステータスシンボル、洋館は新時代のステータスシンボルであった[68]。この形式の邸宅は明治20年代には上流層の住まいとして一般的なものとなった。それにともない、洋館は大邸宅だけでなく比較的小規模な邸宅にも設けられるようになり、1室だけの洋館がすえつけられた家屋すら登場した[72]。 作品性の多極化伝統の再考と近代和風建築明治期日本における西洋建築の導入は非常に急速なものであった。先述したように、工部大学校から最初の卒業生が輩出されてから30年ほどで、日本国内にはさまざまなモニュメンタルな建築が次々と建造された[73]。しかし、これら「第一世代」の建築家は、西洋の古典建築に存在するような体系だった思想背景を欠いており、藤森照信をして「悪く言えば『ただ作っていた』と非難されても仕方がない」といわしめる、規範に忠実だが思想的に深みのない建築を築いていた[74]。 こうした状況に反発し、日本における建築思想の礎を築いたことで知られるのが伊東忠太である。伊東は1893年(明治26年)に『法隆寺建築論』を発表し[注釈 8]、法隆寺が世界最古の木造建築であり、そのプロポーションや、中門のエンタシス様の柱がギリシア建築に由来するものであると論じた[75]。この説は事実上、実証が不可能であったため、明治30年代にはすでに建築史において取り上げられることはなくなった[76]。しかし、伊東の研究は、日本の伝統建築を西洋古典建築の文脈に関連させながら位置づけることに成功し、このことは様式建築の規範に沿いながら「日本的」な建築を築くことを可能にした[77][注釈 9]。この時代の空気感のなかで、長野宇平治はハーフティンバー様式を原型とする和洋折衷建築である奈良県庁(1895年・明治28年)を建設した[78]。 伊東はギリシアで木造神殿が石造に置き換えられたのと同様、日本の木造建築もまた近代的な建築技術によって新しい様式に進化するのが当然であるとする「建築進化論」を掲げた[79]。建築家としての伊東は1895年(明治28年)に平安神宮を設計したのちこの思想を実践に移し、真宗信徒生命保険(1912年・明治45年)や築地本願寺(1934年・昭和9年)を造立した[80][81]。木造伝統様式を石造様式に融合させようとする試みはほかに、佐藤功一の日清生命(1917年・大正6年)や大江新太郎の明治神宮宝物殿(1921年・大正10年)などでおこなわれた[82]。 また、伊東が平安神宮の設計にかかわったことは、それまで伝統的棟梁の仕事であった純和風建築に近代建築家が参入する先駆けとなった。伊東は武田五一とともに台湾神社(1901年・明治34年)を建立したほか、浅野総一郎邸(1909年・明治42年)、明治神宮(1920年・大正9年)などを手掛けた。また、武田は清水寺(1917年・大正6年)や山王荘(1919年・大正8年)などを建築している[83]。建築家による近代和風建築においては、それまでの工匠の経験と伝承による建築とは異なり、過去の様式の意識的な参照が積極的におこなわれた。たとえば、岡田信一郎は、村上喜代次邸(1921年・大正10年ごろ)を桃山リヴァイヴァル様式で築いている[84]。 モダンデザインの導入19世紀末以降のヨーロッパにおいては、従来の歴史的様式から脱却し、自然の形体に基づいた曲線的モチーフを多用するアール・ヌーヴォーがあらわれはじめた[85]。同時代にヨーロッパに留学していた日本人建築家にも、この潮流に大きな影響を受けたものがいた。武田五一は1905年(明治38年)の福島行信邸において内装や細部までこだわったアール・ヌーヴォー建築を実現したほか、日高胖の神本理髪店(1904年・明治37年)、曽禰中條建築事務所の群馬県主催連合共進会機械館(1910年・明治43年)など、以後明治の終わりまでこの様式での建築は散発的におこなわれる[86]。とはいえ藤森照信は、彼らはアール・ヌーヴォー建築を新種の歴史様式をして消費したのみであり、ヨーロッパにおいてこの運動がもたらしたような、建築思想の改革をもたらすことはできなかったと論じ、「モダンデザインを本当に必要としたのは、第二世代の後に登場する大正期の青年建築家たち」であると述べる[87]。 後藤慶二の豊多摩監獄(1915年・大正4年)は、しばしば「明治建築とは異なる性格を持つ大正建築の典型例」とみなされることがある[88]。後藤は1916年(大正5年)、野田の『建築非芸術論』に対する反論として「過去とも将来ともつかぬ対話」を発表している。ここで彼は、野田の主張が「建築に求められる多面的な条件の相互矛盾をどう調整するか」という問題に対して、「どれか一つの条件のみに注目してそれを徹底し、他を捨象してしまう」ことにより、「課題の多面的な条件に応えることを逃避」するものであると批判し、建築家は各種の問題に対して妥協するのでも捨象してしまうのでもなく、自己の内面に独自の基準を確立し、矛盾する課題に正面から向き合っていくべきであると論じた[89]。豊多摩監獄の建築のあり方においても構造技術と造形思想の均衡がはかられており[90]、幾何学とマッスという近代建築の新しい方向を示したこの作品は、続く大正期の建築家たちの「灯台」となった[91]。 1913年(大正2年)のフランク・ロイド・ライトの来日と、彼による帝国ホテル(1923年・大正12年)の建造も、日本の近代建築におけるモダンデザインの導入に影響した。彼は帝国ホテル建造のかたわら福原有信別邸(1921年・大正10年)や自由学園(1922年・大正11年)といった他の作品も手掛け、その間、遠藤新や土浦亀城といった複数の若手建築家が彼に師事した[92]。 RC構造の導入と合理主義1891年(明治24年)の濃尾地震は死者7000余人、全壊家屋14万棟という甚大な被害を生み、なかでも煉瓦造建築の被害は著しかった[93]。工部大学校を卒業した直後であった横河民輔は同年、これに際して『地震』を著し、地震に対する構造物のあり方について論じた[94]。横河は1895年(明治28年)、乞われて三井に入社し、三井本館(1902年・明治35年)の建築に取り組んだ。この建築では、日本では初めての鉄骨補強構法が用いられた[95][96]。三井本館を建造するための鉄骨の買付けおよび、建築の実情視察のためアメリカに渡った横河は、現地の先進的な工場経営に強い影響を受ける。彼は三井退社後の1903年(明治36年)に横河工務所を設立し、三井貸事務所(1912年・明治45年)や帝国劇場(1911年・明治44年)といった鉄骨造建築を多く手掛けたほか[97][96]、鉄骨材メーカーである横河橋梁製作所、エレベーターや空調機械を開発製造する横河電機研究所といった多くの建築関連企業を興した[98]。 また、遠藤於菟は、1911年(明治44年)に三井物産横浜支店を建造した。これは日本におけるはじめての、全体がRC構造の建築である[99]。遠藤は造形素材としてのコンクリートに可能性を感じ、東京日日新聞(1917年・大正6年)などではコンクリートらしさを全面に出した実験的な建築を試している[100]。佐野利器は1915年(大正4年)に『家屋耐震構造論』を上梓した。佐野は揺れの強さを水平方向の加速度で表す水平震度の概念を提唱して、実用的な学問としての耐震構造学を基礎づけ、[101][102]。耐震設計にもっとも適した建築である鉄骨構造やRC構造を積極的に推し進めた[102]。大正期、特にオフィスビルにおいてRC造は一般的となり、曽根中條建築事務所による東京海上ビルディング(1918年・大正7年)、郵船ビルディング(1923年・大正12年)、桜井小太郎による丸の内ビルディング(1923年・大正12年)などが建てられた[100]。 1923年(大正12年)の関東大震災は、東京圏の建築に重大な被害をもたらした一方で、RC構造建築の被害は軽微であった。この災害は鉄筋コンクリートの耐震性を証明するものであった[103]。コンクリート塀を「万年塀」と俗称するようになったのもこうした時流の反映であり[104][105]、鈴木信太郎旧居書斎(1928年・昭和3年)など、個人が私財を投じてRC造建築を建てることも多くなった[106]。 当時の内務大臣であった後藤新平は帝都復興院を組織し、佐野を東京市建築局長に就任させた。佐野の指導のもと、東京の小学校はRC造で再建された(復興小学校)[107]。1934年(昭和9年)の室戸台風を契機として、こうしたRC造建築の小学校は近畿にも広がった[108]。また、1926年(大正15年)から1934年(昭和9年)にかけて、同潤会により復興事業の一環として建設された同潤会アパートも、RC造建築であった[109]。従来の日本においてRC造建築の建設費は非常に高価で、施工も困難であったが[110]、こうした事業の成果もあり、施工者はRC構造に習熟していった[111]。 佐野らによってもたらされた「工学的建築への転回」は、従来の様式建築に対するアンチテーゼとしても機能した。佐野は1911年(明治44年)に『建築家の覚悟』と銘する論文を発表する。同稿において彼は、現代日本の建築に求められているのは「如何にして最も強固に最も便益ある建築物を最も廉価に作り得べきか」の問題解決にほかならないと、「如何にして国歌を装飾すべきか」という些事にとらわれている他の建築家を批判した[112]。また、野田俊彦は1915年(大正4年)に『建築非芸術論』を発表し、建築は実用物であり、その芸術性を強調する考えは誤りであると論じた[113][114]。野田のこの議論は、美術としての建築を日本社会に根付かせようとしてきた日本の建築界に衝撃を与えた[114]。 分離派と建築運動1920年(大正9年)、東京帝国大学建築学科の卒業生6人(矢田茂・山田守・石本喜久治・森田慶一・堀口捨己・瀧澤眞弓)によって発足した分離派建築会はそれまでの様式建築とも工学的建築とも距離を置く形で、建築の芸術性を主張した[115]。「分離派」という名称はドイツの芸術運動である「ゼツェシオン」の和訳であるが、その活動内容は19世紀から継続してきたさまざまな建築運動、とりわけドイツ表現主義の影響を色濃く受けたものであった[116][117]。分離派建築会は古典様式を排した曲線や曲面による造形を多用する作品案をつくり、建築展である「分離派展覧会」を開催するといった活動を、1928年(昭和3年)までおこなった[117]。分離派メンバーの作品としては、堀口捨己の平和記念東京博覧会平和塔(1921年・大正10年)や、山田守の東京中央電信局(1927年・昭和2年)がある[118]。 分離派は日本における建築運動の嚆矢として、同時代の建築家に刺激を与えた[117]。さらに、1923年(大正13年)の関東大震災は、こうした建築運動への関心をさらに高める契機となった。震災を通じ、東京の建築景観が白紙に戻ったことにより、平常時では不可能な改革の可能性が見出されたこと、その過程でしばしば見られた、簡素化・科学化を旨とする改革案に対し、芸術を志向する人々が反発心を覚えたことがその理由である[119]。たとえば、MAVOは震災後に現れたバラック建築に着目し、マヴォ理髪店(1923年・大正12年)や葵館(1924年・大正13年)といった奔放な建築を築いた。今和次郎らバラック装飾社も同様に震災後の建築に着目し、被災地のバラック壁面を装飾する活動をおこなった[120]。国民美術協会主催の帝都復興創案展覧会(1924年・大正14年)は当時の建築運動団体が「創案」を展示する大規模な展覧会であり、MAVOや分離派をふくむ多くの団体が参加した[121]。この展覧会に参加した団体としては、ほかに岡本蚊象(山口文象)ら創宇社建築会がいる。一時分離派にも所属していた岡村は1923年(大正13年)、逓信省営繕課で製図工として働いていた下級技師らを中心に、ノンエリートの建築家による団体として創宇社をつくった[122][123]。当初、分離派同様に表現主義に影響を受けていた創宇社はのちにロシア構成主義およびマルクス主義に接近していくが、1930年(昭和5年)に中心人物である岡本が渡欧したことで退潮することとなる[124]。 様式建築の変容ヨーロッパの建築潮流がアール・ヌーヴォーのようなモダンデザインに傾きはじめる一方で、アメリカにおいては引き続き様式建築(ボザール様式)が勢力を伸ばしていた。こうした時代の影響をうけ、日本においてもアメリカの影響を受けた様式建築が多く建てられるようになる[125][126]。ボザール様式の建築としては先述の三井会館が挙げられるほか、野口孫市の大阪図書館(1904年・明治37年)や渡辺節の日本勧業銀行(1929年・昭和4年)がある。また、横河工務所は株式取引所(1927年・昭和2年)のような、アメリカの影響を強く受けた民間建築を数多く手掛けた[127]。 明治から昭和初期にかけての様式建築においてはアメリカの影響が強かったが、一方で、ヨーロッパ的への理解をさらに深化させようとした建築家もいた。たとえば、イギリスに留学し、曽禰達蔵とともに事務所を経営し、慶応大学図書館(1912年・明治45年)を手掛けた中條精一郎がそのひとりである[128]。また、長野宇平治はパッラーディオの『建築四書』といった古典籍を収集しながらヨーロッパ様式建築への理解を深め、三井銀行神戸支店(1916年・大正5年)のような建築を築いたほか[129]、大倉精神文化研究所(1932年・昭和7年)では当時発見されてまもないエーゲ文明の建築を参照した「プレヘレニック様式」を用いた[130]。 住宅建築明治期の中流階級の住まいは、江戸期下級武士の侍屋敷、さらに遡れば書院造を原型とするものであった[131]。これらの家屋は、各部屋の通り抜けを前提とする、襖と障子、あるいは板戸で区切られた間取りを有しており[131][132]、客間と主人の部屋を特に重視し、居間や使用人の部屋といったその他の場をないがしろにする傾向があった。和風住宅が有していたさまざまな問題は批判の対象となり、たとえば1898年(明治31年)には『時事新報』で「家屋改良論」、1903年(明治36年)には『建築雑誌』上で在来住宅批判が次々と発表された。これらの批判は、声の筒抜けの不都合、通り抜けの不都合、部屋の機能の不明確さなどを問題とするものであった[133]。 田辺淳吉は新しい住宅のありかたを西洋の例に求めようと、1908年(明治41年)にオーストラリアの中小住宅を紹介した。田辺は間取りの中央に廊下が走る平面構造に注目し、通り抜けの都合や部屋の独立性といった、従来の和風住宅に向けられていた問題点をこの手段をもって解決できるのではないかと論じた。1910年(明治43年)には早くも田辺の主張を実際の間取りに取り入れたと考えられる例が現れはじめ、明治末期頃からは中廊下型住宅が急速に普及していくこととなる[134]。廊下の存在は家族間、あるいは家族と使用人の間のプライバシーを確保した。加えて、この時代の中流住宅には、玄関脇に洋風の応接間が置かれることも多かった。応接間は和洋併置式邸宅を中流住宅向けに縮小したものであるとともに、それまでの住まいにおいて中心的位置を占めていた客間を、ほかの空間から独立させる意味があった[135]。 1909年(明治42年)、橋口信助は、アメリカでカタログ販売されていた組み立て式のバンガローハウスを輸入し、住宅会社のあめりか屋を興した。あめりか屋の住宅は、和風住宅に満足できないながらも上流階級ほど経済的余裕はない中流階級に注目された[136]。橋口が日本に持ち込んだアメリカ式の住宅は、それまで一番重要視されていた接客空間を切り捨て、家族本位の空間である居間を中心に据えたものだった。こうした居間中心型住宅は、中廊下型住宅ほどではなかったものの、家族中心の新しい形式として、若い建築家やインテリの間に普及していった[137]。橋口は1917年(大正6年)、女子教育家の三角錫子とともに住宅改良会を設立した[138]。この団体は、日本の住宅改良を目指して設立されたものとしては最初のものであり[139]、雑誌『住宅』の刊行と[注釈 10]、住まいに関する設計競技をおこなった[137]。このような民間の動向に刺激されて、1920年(大正9年)には文部省の外郭団体として生活改善同盟会が発足する。同団体は住宅改善にむけて6つの指針を発表したが[注釈 11]、この思想の内容は初田亨いわく「文書として表現された居間中心型平面そのもの」であった[141]。1922年(大正11年)にはこれら文化住宅の展示会として、東京では平和記念東京博覧会、大阪では住宅改造博覧会が開かれた[142]。 邸宅・商店建築邸宅・商店建築のような私的な建築においては、いくつかの特徴的な様式が移入された[143]。たとえば武田五一が福島行信邸(1905年・明治38年)、日高胖が神本理髪店(1904年・明治37年)でもちいたアール・ヌーヴォーはその一例である[86][144]。また、野口孫市も、伊庭貞剛邸(1905年・明治38年)や田辺貞吉邸(1908年・明治42年)、(同年)などにアール・ヌーヴォーの意匠を採用している[144]。また、スパニッシュ様式とチューダー様式も、この時期の住宅・邸宅建築でよくみられるものである[145]。スパニッシュ様式は1920年代から30年代にかけてアメリカで流行した形式で[146]、日本においては1922年(大正11年)の住宅改造博覧会に出品されたものがはじめてだった[147]。大林組やあめりか屋などにより、建売住宅として多くのスパニッシュ様式の住宅が建造されたほか[146]、邸宅建築としてもウィリアム・メレル・ヴォーリズの朝吹常吉邸(1925年・大正14年)、小寺敬一邸(1929年・昭和4年)曽禰中條建築事務所の小笠原長幹邸(1927年・昭和2年)などが建てられた[148]。チューダー様式は明治30年代後半ごろから流行し、ジョサイア・コンドルによる自邸(1903年・明治36年)、田辺淳吉による晩香廬(1916年・大正5年)、渡辺仁による徳川義親邸などが建てられた[149]。 また、大正期から昭和期には、いわゆる「近代数寄者」らによって、茶の湯を中心とする和風サロン文化が形成されはじめた[150]。さらに、足立康と福山敏男らにより、日本建築史の研究対象が社寺建築のみならず、それ以外の私的建築まで広がったことも影響し、昭和初期には建築界で茶室が注目をあびるようになる[151]。堀口捨己は紫烟荘(1927年・昭和2年)で、アムステルダム派風の茅葺屋根建築を茶室の意匠と組み合わせたほか[152]、岡田邸(1933年・昭和8年)や山川邸(1938年・昭和13年)といった多くの茶室・数寄屋建築を手掛けた[153]。また、吉田五十八は部材を省略して構成のモダン化を図った「新興数寄屋」を提唱し、吉屋信子邸(1936年・昭和11年)などを建造した[154]。 関東大震災後、看板建築といわれる モダニズムの時代遠藤と土浦は渡米し、ライトの設計事務所であるタリアセンにも所属する。遠藤はその後も甲子園ホテル(1930年・昭和5年)などでライトの作風を継承した一方、土浦は後にライトの作風と決別し、バウハウス派に転向する[92]。 注釈
出典
参考文献
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