利用者:小萩きりく/sandboxⅢ
小袖(こそで)は、室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏所用と伝えられる鎧。御小袖とも記される。足利家の家督あるいは将軍の権威の象徴として代々の足利将軍に継承された。室町幕府の末期に失われたとみられ、記録が途絶えたためその後の行方はわからない。 第3代将軍足利義満は明徳の乱で出馬するにあたって、その重要性から小袖を故意に着用しなかった。第9代義尚の六角征伐、第10代義材の河内征伐では、鎧櫃に入れて携えられている。 将軍自らが出陣することのなかった第5代義教の時期には、将軍の邸宅である室町御所に設けられた「小袖の間」という空間で、同じく尊氏が帯びた名刀「二つ銘」や「抜丸」、旗、笙の名器「達智門」等といった足利家の由緒を示す重代の宝物に囲まれて保管されていた。 概要白糸縅の鎧である。 一色氏が管理していた。
非常に厳重な取り扱いで、第8代将軍義政の頃には将軍といえども一代で一度のみ観ることが許されるという慣習が定着していた。将軍に就任した者が小袖を見る儀式を「御小袖拝見」という。穢れを嫌い、当日は奉公衆は寄せ付けなかった。 歴史
『梅松論』には足利尊氏が多々良浜の戦いにおいて「御重代の御鎧御小袖」を勢田(熱田)の野田大宮司に着用させたことが記されている。
高師直に包囲された尊氏が身に着けて合戦の意志を示した。ただし古態本にはみえない。〔鈴木彰〕
第3代将軍足利義満は明徳の乱で出馬するにあたり、御小袖を着用しないのかと家来に問われたが、御小袖は朝敵追討にのみ用いられるべきもので、今は家臣を討伐するための出陣であるからと言って、燻べ皮の腹巻を着用して出陣した〔『明徳記』・川合〕。
『看聞御記』応永29年(1422年)4月2日の条によれば、去る頃将軍御所の宸殿を辻風が襲い、「重代鎧小袖置所之棟一間」が吹き破られた。義持の代にすでに専用の保管所があったことが分かる。〔鈴木彰〕
永享5年5月4日(1432年6月6日)、小袖の間から重代の太刀抜丸を含む二振りの宝剣が盗まれた。三宝院満済は御小袖に副えられている御剣が盗まれたという知らせを受けて重代の太刀「サゝ作」すなわち二つ銘則宗(篠作)が盗まれたのだと思ったが、室町御所に行ってみると盗まれたのは抜丸だった。将軍義教は事件に仰天し、自ら御小袖の間に入って二つ銘と御小袖の無事を確認した。近くには竹と木でできた鑰(かぎ)がねじ切られて落ちていた。捜索の結果、7日になって発見され、諸大名以下が室町御所に参上し、御剣発見を祝った。こののち相国寺で僧百人の祈祷が行われた。〔鈴木彰〕 文明12年12月(1481年1月)頃、将軍義尚の住む室町御所の小袖の間から、太刀二つ銘、刀、薙刀など重代の7品が盗まれた。盗人が太刀の金具を売ろうとしたことから足がつき、12月15日に捕縛された。宝刀類も取り戻された。犯人は賀茂の氏人であるニ十歳前後の万彦大夫という男とその弟で、桁走りという異名を持っている盗賊だった。4月26日に兄弟は六条河原で処刑された。〔鈴木彰〕
前兆の小袖の間鳴動の話は専用節へ。沢田源内の偽書の話は軽くここで。
小袖の間
→小袖の間の宝刀類の盗難事件
小袖とメトロポリタン美術館の鎧と騎馬武者像との関係評価
脚注注釈出典参考文献
関連項目
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