利用者:安息香酸/砂場5

en:William the Conquerorのoldid=1267928519版からのコピペ

ウィリアム征服王
バイユーのタペストリーに描かれたウィリアム征服王
ヘイスティングズの戦いの折、ウィリアムが戦死したとの噂が戦場で広まった際、自身の兜を取って戦場を駆け巡り、自身は健在であることを味方の戦士に伝えて回ったと伝わる。

在位期間
1066年12月25日 – 1087年9月9日
戴冠式英語版 1066年12月25日
先代
次代 ウィリアム赤顔王

在位期間
1035年7月3日 – 1087年9月9日
先代 ロベール1世
次代 ロベール短袴公

出生 1028年ごろ[1]
ノルマンディー公国
ファレーズ
死亡 1087年9月9日
ノルマンディー公国
ルーアン
埋葬 セント・エティエンヌ大修道院英語版
王室 ノルマンディー家
父親 ロベール華麗公
母親 アルレット・ド・ファレーズ
配偶者 マティルダ・オブ・フランダース
子女
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ウィリアム征服王(英語William the Counqueror[注釈 1](またの名をウィリアム庶子王英語William the Bastard)とも[2][注釈 2])(1028年ごろ - 1087年9月9日)とは、初代ノルマン人イングランド王(在位:1066年12月25日 - 1087年9月9日)並びにノルマンディー公(在位:1035年7月3日 - 1087年9月9日)である。初代ノルマンディー公ロロの末裔として、ウィリアムはギヨーム2世[注釈 3]としてノルマンディー公を1035年に継承し[3]、長きにわたる抗争の末、ギヨームはノルマンディー支配を確実なものとした。1066年にはウェセックス家イングランド王エドワード懺悔王の死を受け、ギヨーム2世はイングランドに侵攻を開始。ヘイスティングズの戦いイングランド王ハロルド・ゴドウィンソンを打ち破り、イングランド王国を手中に納めることに成功した。しかし晩年は、イングランド並びに大陸領での紛争や彼の長男ロベールとの不和に悩まされることとなった。

ギヨーム(以降、イングランド王即位以前のウィリアム征服王をギヨームと呼ぶこととする。)はノルマンディー公ロベール華麗公アルレット・ド・ファレーズとの間に庶子として誕生した。ギヨームの非嫡出子という立場に加えて彼が幼くして公爵位を継承したことにより、ギヨームは多くの困難を抱えた上に、公爵就任後1年の間ノルマンディーは無政府状態に陥ることとなった。ギヨームが成人するまでの間、ノルマンディー諸侯はギヨーム公を手中に納めんとするとともに、各々の目的を果たすべくお互い争い続けた。1047年、ギヨーム公は反乱を鎮圧し、続けて公国全土に権威を広げんと試みたが、この試みは1060年代まで続けられることとなった。1050年代には、ギヨーム公はフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダと結婚することで、フランドル伯国という強力な同盟者を得た。また、マティルダとの結婚以前にギヨームは自身の支持者をノルマンディーの教会の司教・司祭に任命できるほどにまで権威を回復していた。このように、ギヨームは徐々に権力を自身に集中させることに成功し、結果として公国領土の拡大に繋がり、1062年までには隣国のメーヌを制圧した。

1050年代から1060年代初頭にかけて、ギヨームはイングランド王位後継者の一人として名を挙げていた。当時のイングランド王エドワード懺悔王(ギヨームの従兄弟でもある)に子供がいなかったためである。しかし潜在的に後継者として目されていた有力諸侯はほかにもおり、その一人がハロルド・ゴドウィンソンであったが、エドワード懺悔王が臨終の際に彼を後継者として指名したため、ハロルドとギヨームの対立は明確なものとなった。ギヨームは「ハロルドはかつてギヨームのイングランド王位継承を承認し、国王就任後のギヨームに対する支援を約束していた」として自身の王位継承の正当性を主張し、艦隊を建造してイングランドへの侵攻、いわゆるノルマンコンクエストを計画した。結果、1066年9月14日の決戦でハロルド・ゴドウィンソン率いるイングランド軍を撃破しハロルド・ゴドウィンソン自身を討ち死にに追い込んだことで、ギヨームはイングランド征服を完遂した。1066年のクリスマスにギヨームとマティルダは戴冠式英語版ロンドンウエストミンスター寺院で挙行し、ウィリアム1世(ウィリアムはギヨームの英語読み)としてイングランド王に就任した。ウィリアム王はイングランドの統治に関わる手配を済ませ、1067年初頭にノルマンディーに帰国した。その後、イングランドでは反乱が乱発したが、ウィリアム王は1075年までにイングランド支配を安定化させ、その後の治世の大半の期間を大陸領での活動に費やすことが可能となった。

ウィリアム王の治世末期は大陸領での問題や彼の息子ロベールとのいざこざ、そしてデーン人による侵略に悩まされた。1086年、ウィリアム王はドゥームズデイ・ブック(コンクエスト以前と以降のイングランドにおける土地保有者に関する調査)の編纂を命じた。1087年9月、ウィリアム王は北フランスに対する軍事遠征の最中に崩御し、カーンに埋葬された。イングランドにおけるウィリアム王の治世は、城塞群の建設・ノルマン諸侯のイングランド入植事業・イングランド人聖職者の組織構成の変更などで特色付けられている。ウィリアム王はイングランド・ノルマンディーを別々に統治する方向性で政策を進めた。ウィリアム王の死後、イングランドは次男ウィリアム・ノルマンディーは長男ロベールに継承された。

背景

現在ノルマンディーと呼ばれている地域でノース人の襲撃が始まったのは8世紀後半であった。それに続いてスカンディナヴィア人による入植活動が始まり、911年には著名なヴァイキング首長ロロが西フランクの国王シャルル単純王の許可のもとで、ルーアン地域を獲得し定住を開始した。ルーアン近郊の地域はのちのノルマンディー公国の中核となった[4]。その後、ヴァイキングによるイングランド襲撃活動が再活発化した10世紀ごろにはノルマンディーは彼らの活動の拠点となり、イングランドとノルマンディーの関係悪化につながった[5]。両国間の関係改善を試みたイングランドの国王エゼルレッド無策王は、1002年に当時のノルマンディー公リシャール2世の妹エマを後妻として娶り、両国の間に婚姻関係を結んだ[6]

デーン人による襲撃がその後も絶えず続き、遂にはデーン人の王であるスヴェン双叉髭王が直々にイングランド侵攻を開始したことで、エゼルレッド王はリシャール公に支援を求め、家族と共にノルマンディーに亡命することとなった。スヴェン王が1014年に亡くなったことで、エゼルレッド王はノルマンディーからイングランドへの帰還を果たしたが、スヴェンの息子クヌートがエゼルレッド王と対立することとなった。しかし1016年、エゼルレッド王が突然亡くなったことで、イングランド王位はクヌートの手に渡り、エゼルレッド王の息子:エドワード王子アルフレッド王子はノルマンディーへの亡命を強いられ、エゼルレッド王の後妻エマはクヌート大王に嫁いだ[7]

1035年にクヌート大王が亡くなりと、イングランド王位はクヌート大王と一人目の王妃との間の息子ハロルド兎足王に継承され、デンマーク王位はエマとの息子ハーデクヌーズに継承された。が、イングランドは非常に不安定な状況にあった。1036年にはアルフレッド王子がイングランドに舞い戻り母と再開するとともに、イングランド王位を巡り兎足王と対峙した。しかしアルフレッド王子はその後殺害された。この殺人の罪は当時の有力貴族ウェセックス伯ゴドウィンにあるという説や、兎足王の差し金であったという説が存在する。エマはその後フランドル伯国に落ち延び、1040年に兎足王が死んでハーデクヌーズがイングランド王位を継承するまで当地で亡命生活を続けた。そして1042年7月


After Cnut's death in 1035, the English throne fell to Harold Harefoot, his son by his first wife, while Harthacnut, his son by Emma, became king in Denmark. England remained unstable. Alfred returned to England in 1036 to visit his mother and perhaps to challenge Harold as king. One story implicates Earl Godwin of Wessex in Alfred's subsequent death, but others blame Harold. Emma went into exile in Flanders until Harthacnut became king following Harold's death in 1040, and his half-brother Edward followed Harthacnut to England; Edward was proclaimed king after Harthacnut's death in June 1042.[8][注釈 4]

若年期

Château de Falaise in Falaise, Lower Normandy, France; William was born in an earlier building here.

1027年/1028年、ギヨームはファレーズで誕生した[1][9][注釈 5]。ギヨームはロベール1世華麗公の唯一の息子で、かつロベール1世はリシャール2世の息子であった[注釈 6]。ギヨームの母アルレット・ド・ファレーズフュルベール・ド・ファレーズ英語版という名のかつて皮なめし工・もしくは防腐処理者であった者の娘であった[10]。アルレットは公爵家の雇われ人であった可能性もあるが、ロベール1世とは結婚していなかった[2]。アルレットはその後、エリュルアン・ド・コントヴィル英語版と結婚し、彼らの間に2人の息子:オド英語版ロベール、そして氏名不詳の娘が後に誕生した[注釈 7]。アルレットの兄弟の1人ゴーティエは、幼いギヨームを守った[10][注釈 8]。ロベール1世には他の妾との間に娘アデライードもいた[13]

ギヨームの父ロベール1世は彼の兄リシャール3世の後を継ぎ、1027年8月6日にノルマンディー公を継承した[1]。ロベール・リシャール兄弟は公爵位の継承をめぐってかねてより対立しており、リシャール公の死は突然の出来事であった。歴史家の中にはロベールが兄リシャールを殺害したとして攻め立てる者もいたが、もっともらしい話ではあるものの今となっては証明するすべはない[14]。当時のノルマンディー公国は、諸侯らが教会を略奪して回り、ブルターニュ公アラン3世が公国に侵攻するなど混乱した状態が広がっていた。1031年までに、ロベール1世は公国内の諸侯を取りまとめることに成功し、これらの諸侯の多くはギヨームの生涯において重要な役目を果たすこととなる[15]。この中の1人、ルーアン大司教ロベール2世はギヨームが公爵位を継いだ後も、ノルマンディーにて亡命生活を続けていたウェセックス王族エドワード(のちのエドワード懺悔王)・アルフレッドに対する支援政策を継続した[2]

父ロベールはかつて、クヌート大王の娘と一時的に婚約していた可能性も考えられているが、結局結婚することはなかった。もしロベールが嫡出子を儲けていた場合、ギヨームは公爵位を継承できていたかどうかは明らかではない。しかし、以前のノルマンディー公たちはみな非嫡出子であり、ギヨームが公国内での勅許状に父ロベール公と共に名を連ねていることから、最も有力なノルマンディー公位継承者として目されていた可能性は高い。1034年、ロベール公はエルサレムへの巡礼を取り決めた。彼の家臣の中には巡礼を取りやめるよう翻意を促したが、ロベール公は1035年1月に評議会を招集し、エルサレムに出発する前に、ノルマンディーの諸侯たちを集めて息子のギヨームに対して公爵位継承者としての忠誠を誓わせた[2][16]。ロベール公はエルサレムからノルマンディーに帰国する道中で、同年7月にニカイアで亡くなった[16]

ノルマンディー公

困難期

ギヨームと彼の一族の家系図。名前の下に"---"のマークがある人物はギヨームと対立した者で、 "+++"のマークがある人物はギヨームを支援した者。2つとも記されている者は途中で鞍替えした人物。

ギヨームは自身の非嫡出子としての出自や公爵位を幼くして継承したことを含み、ギヨームは公爵になる際に多くの困難を抱えていた[17][18][注釈 9]。そんなギヨームは大叔父のルーアン大司教ロベール2世やフランス王アンリ1世の支援の下で父ロベールから公爵を継承できた[21]。また、1036年にノルマンディー滞在中の亡命ウェセックス王族たちに対する支援政策からは新公爵の後見人たちがそれまでの政策の継続を試みたことがうかがえるが[2]、1037年5月にギヨームの支援者の1人ルーアン大司教が亡くなったことで、ノルマンディーは一気に混乱へ突き進んだ[21]

公国内の混乱は1047年まで続き[22]、権力掌握を目論むノルマンディー諸侯たちは何よりも幼いギヨーム公を抱え込むべく奔走した。最初にギヨーム公を手中に納めたのはブルターニュ公アラン3世であったがアラン公自身が1039年後半/1040年9月に亡くなり、続いて父ロベール公の頃からの支援者でギヨームの後見人であったブリオンヌ伯ジルベールがギヨーム公を保護下に置いた。しかしその数か月後にジルベール伯は殺害され、もう一人の後見人Turchetilもまた、ジルベールと同時期に殺害された[23]。また残された他の後見人オスベール・ド・くれポン(en:Osbern the Steward)に至っては、ギヨーム公の就寝中に公爵の寝室で殺害されたとされる。また、ギヨーム公の母方の叔父ゴーティエは時折幼きギヨーム公を農民の家に隠れさせる必要に迫られることもあったと伝わる[24]が、この話は当時の年代記編者オルデリック・ヴィターリス英語版の誇張を含むともされる。また、歴史家Eleanor Searleは、ギヨーム公はウィリアム・フィッツ・オズバーン英語版ロジェ・ド・ボーモン英語版ロジャー・ド・モントゴメリー英語版の3人の従兄弟によって養育されたと推測している[25]。多くのノルマンディー諸侯はギヨーム公が幼いことを理由に個人的な戦争や抗争に専念していたものの、先述の諸侯たちは依然として公爵による公国統治を支持し、教会勢力もギヨームを支持した[26]


ヴァレ=デュヌの古戦場跡に立つ記念碑

フランス王アンリ1世は幼きギヨーム公の支援を継続したが[27]、1046年にはギー・ド・ブルゴーニュ英語版コタンタン半島・ベッサンの領主たちの支援を得て下ノルマンディー地域で反乱を起こした。伝説的な要素を含む逸話によれば、ヴァローニュにて反乱軍はギヨーム公の身柄の拘束を試みたものの、ギヨーム公は夜陰に紛れて逃げ出し、フランス王のもとに身を寄せたと伝わる[28]。1047年初期頃にアンリ1世・ギヨーム公はノルマンディーに進軍し、ヴァレ=デュヌの戦い(en:Battle of Val-ès-Dunes)で反乱軍を撃破したと伝わるが、戦闘の詳細については不明な点が多い[29]。11世紀の司祭ギヨーム・ド・ポアティエ英語版によれば、この戦いは主にギヨーム公の活躍によってもたらされた勝利であると主張しているが、それ以前に記された文献にはフランス王の統率力並びにその戦士たちも重要な役割を果たしたと記されている[2]。戦後、ギヨーム公は公国におけるノルマンディー公としての権力を掌握し、戦闘から間もなくして神の名の下での休戦英語版を公国中に布告し、戦闘が許される日を制限することで戦役や暴力行為の制御を試みた[30]。ヴァル=デュヌでの勝利がギヨーム公の公国制圧の転機とはなったものの、ノルマンディー諸侯を完全に掌握しきったわけではなかった。1047年以降1054年までの期間は依然として混乱が続き、それから1060年までは比較的小規模な混乱が続いた[31]

権力の掌握

ギヨーム公は続く攻略目標をあのギー・ド・ブルターニュに定めた。ギーはヴァル=デュヌでの敗戦以降、ブリオンヌ英語版の居城に撤退・籠城を続けていたが、ギヨーム公はこの城を包囲した。長きにわたる包囲戦の末、1050年にギヨーム公はギーを公国から追放するのに成功した[32]。また、この頃勢力を拡大していたアンジュー伯英語版ジョフロワ2世[33]に対峙すべく、ギヨーム公は再びフランス王アンリ1世と連携したうえでアンジュー伯国への遠征を敢行した。ギヨーム公とフランス王との連携は今回が最後となった。ノルマンディー・フランス連合軍はアンジュー地域の砦の制圧には成功したものの、それ以外目立った結果を得ることはできなかった[34]。一方のジョフロワ伯はメーヌ地域への領地拡大政策を推し進めており、1051年のメーヌ伯英語版ユーグ3世英語版死去以降は特に顕著であった。メーヌ伯国の支配において中枢をなしていたのは、ベレーム家英語版の所領であった。ベレーム家はメーヌ・ノルマンディー国境上の街ベレームアランソン・ドンフロン(:en:Domfront)地域の砦を統治していた。そして、ベレーム家は異なる上級君主に同時に従属しており、ベレーム地域はフランス王の直属家臣として、アランソン地域はノルマンディー公の家臣として、そしてドンフロン地域はアンジュー伯の家臣として、それぞれ統治していた。ベレーム家は上述の通り、異なる3人の上級君主の間の極めて戦略的な位置に領土を有していたため、上級君主同士を争わせることで実質的なベレーム家の独立状態を保っていた[33]

Image from the Bayeux Tapestry showing William with his half-brothers. William is in the centre, Odo is on the left with empty hands, and Robert is on the right with a sword in his hand.

メーヌ伯ユーグ3世の死に乗じて、ジョフロワ2世はメーヌを占領したが、ギヨーム公・アンリ王がそれに対抗して動き、最終的にはジョフロワ2世はメーヌから駆逐された。アンジュー伯をメーヌから撃退する過程でギヨーム公はアランソン・ドンフロン地域のベレーム家支配下の砦をノルマンディー公国に編入させ、次いでベレーム家をノルマンディー公国の支配下に置くことにも成功した[35]。しかし、1052年にはフランス王とアンジュー伯がノルマンディーと対峙するべく手を組んだ。当時勢力を拡大しつつあったギヨーム公にノルマン人諸侯たちが反発していたことがその理由とされる。このアンリ王のこれまでとは完全に方向性の異なる政策は、ノルマンディー公国を自身の影響下に据え置こうとする自身の政策が、公国を完全に制御しつつあるギヨーム公によって失敗に終わるのではないかとする危惧から生まれたのかもしれない[36]。ギヨーム公は1053年を通じて自身に反発する諸侯との争い続け[37]、新たに任命されたルーアン大司教Maugerとも同様に対立した[38]

1054年、アンリ王とノルマン人反乱諸侯は公国に対して2方面からの侵攻を開始した。アンリ王はエブルー伯国英語版を経由して主力部隊としてノルマンディーに侵攻し、王の兄弟オド率いる別動隊が東部から侵攻した[39]。ギヨーム公はこの2方面侵略に対し、自身の軍勢を二つに分けて対応した。片方の軍勢はアンリ王の部隊と対峙し、もう片方の部隊はウー伯ロベールロングヴィル領主ゴーティエ英語版ロジェ・ド・モーティマー英語版ギヨーム・ド・ワーレン英語版といったギヨーム公の忠実な家臣たちが率いた上で王弟オド率いる別働隊と対峙した。後者の部隊はモルテメールの戦い英語版でオド軍を撃破した。モルテメールでの勝利のおかげでフランス軍の侵攻を食い止めることができたのみに止まらず、この勝利はギヨーム公を支援する教会勢力者たちのルーアン大司教Maugerの廃位にも大いに貢献した。モンテメールでの勝利はギヨーム公が公国の支配を強化する上でのもう一つの転換点となったが[40]、フランス王・アンジュー伯との抗争はその後1060年まで続くこととなる[41]。アンリ王・ジョフロワ伯は1057年に再びノルマンディーに侵攻したが、ギヨーム公はヴァルヴィレの戦い英語版でフランス王・アンジュー伯連合軍を再び撃破した。これはギヨーム公の生涯で最後のノルマンディー遠征となった。1058年、ギヨーム公はドルー伯国英語版に侵攻し、ティリエール=シュル=アーヴル英語版ティメール=ガテル英語版を制圧した。アンリ王はノルマン軍が制圧したティメールを包囲英語版しギヨーム公の放逐を目論んだが、包囲戦は2年続いた上にアンリ王は包囲戦中に亡くなった。1060年、アンリ王・ジョフロワ伯が共に亡くなったことで戦況はノルマン人側に有利な状況へと一気に傾いた[42]


The signatures of William I and Matilda are the first two large crosses on the Accord of Winchester from 1072.

ギヨーム公が有利な立場に立てた要因の一つはフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダとの結婚であった。この婚約は1049年に執り決められたが、同年9月に開催されたランス公会議英語版でローマ教皇レオ9世は彼らの結婚を許可しなかった[注釈 10]。しかしこの結婚は1050年代前半に成立し[44][注釈 11]、これにより教皇から破門宣告を受けていた可能性も考えられている。のちの時代の文献(一般的には信頼できるものとみなされていない。)によれば、教皇からの承認は1059年まで受けられなかったとされるが、当時のノルマン人・ローマ教皇間の関係はおおむね良好であり、かつノルマン人聖職者がトラブルに巻き込まれることなくローマを訪問することができていたことなどから、それ以前にローマより結婚の承認を受けることができていた可能性も考えられている[46]。ギヨーム公とマティルダとの結婚の承認には、カーンに2つの修道院:一つはギヨーム公の出資によるもので一つはマティルダの出資によるものを創設する必要があったとされる[47][注釈 12]。この結婚で得られたフランドル伯との同盟は、フランドル伯がフランス王国で有数の有力諸侯でありかつフランス王・神聖ローマ皇帝との結びつきを有していたことから、ギヨーム公の地位を強化する上で非常に重要なものであった[46]。当時の著述家は、この婚約は4人の息子と6人の娘を儲ける結果となり、成功した結婚であったと文献に記している[49]

The signatures of William I and Matilda are the first two large crosses on the Accord of Winchester from 1072.

容姿と性格

ギヨーム(ウィリアム)の正真正銘の肖像画は現在見つかっておらず、バイユーのタペストリーや彼の紋章・硬貨などには彼の権威を示すための伝統的な手法で彼の肖像が描かれている[50]。しかし彼に外見について、がっしりとした体つきで、喉声で話していたとする記述が見つかっている。ギヨームは老齢に至るまで健康でい続けたとされるが、晩年にはかなり太っていたという[51]。また、ギヨームはほかの誰も引けないような強力な弓を引くこともでき、持久力にも優れていたという[50]。ジョフロワ伯はギヨームに関して、他に並び立つ者のいないほどの優れた戦士・騎士であると評している[52]。彼の遺骨の中で唯一現存している大腿骨を調査した結果、彼は1.78mほどの身長であったと報告されている[50]

1030年代から1040年代にかけて、ギヨームには2人の専属の教師が存在したとされるが、彼が受けた文学教育の程度については明らかになっていない。彼は作家・著述家の後援者としてはあまり知られておらず、彼が学問や知的活動を支援したことを示す証拠もほぼ存在しない[2]。オルデリック・ヴィターリスは、晩年ギヨーム(ウィリアム王)は古英語の学習を試みたものの、その試みはすぐさま潰えたと記録している[53]。ギヨームは狩猟をおもな趣味としていた。また、彼とマティルダとの結婚生活は非常に仲睦まじいものであったといい、当時にしては珍しく、マティルダ妃に対して不誠実であったことを示すようこは何一つ残っていない。中世ヨーロッパの著述家はギヨームの貪欲さや残酷さを非難する内容の文献を書き残しているものの、彼の個人的な敬虔さは広く称賛されていた[2]

ノルマン統治

ギヨームのノルマン統治はそれまでの公爵たちのそれと同様のスタイルであった。それは公爵を中心とする極めてシンプルな体制であり,[54]stewardsbutlermarshalといった役職に就いた人物が公爵の統治を支え[55]、公爵は絶えず公国中を巡回し、勅許状を確認し、税を徴収するというものであった[56]。公国の収入の多くは公爵領から得られており、それに加え通行料や税収が国庫を成していた。これらの収益は公爵家の1部門であるchamberが回収していた[55]

ギヨームは公国内の教会勢力との関係向上も推し進めた。彼は教会評議会に一員として参加し、ルーアン大司教Mauriliusの任命を含む教会人物の任命にも一役買った[57]。ギヨームは1049年/1050年に異父弟オド・ド・バイユー英語版バイユー司教英語版に任命したが、これはギヨームにとって重要な人選となった[2]。また、非ノルマン人の聖職者ランフランクスをはじめとする教会関係者を自身の助言者として側に置いたという。ギヨームはカトリック教会に対し寛大な政策を施行し[57]、1035年から1066年にかけてノルマン諸侯は最低でも20もの修道院を建立し、公国での宗教生活の大いなる拡大につながった[58]

イングランド・大陸領での紛争

1051年、後継者を設けていなかったイングランド王エドワード懺悔王がギヨーム公を王位継承者に任命した[59] ギヨームはエドワード王の母方の叔父ノルマンディー公リシャール2世の孫であったためである。[59]

イングランド王位継承権を主張した諸侯たちと、紛争に加担した諸侯たちの家系図。イングランド王歴任者は太字で名前が記載されている。

D版のアングロサクソン年代記には、王位継承を確固たるものにするため[60]、もしくは公国での紛争に対する援助を得るため[61]、ギヨーム公が1051年後半にイングランドを訪れたと記されている。ただ、この訪問は当時ギヨーム公がアンジュー伯との戦役に没頭していたことを考慮するとあまり現実出来ではない。エドワード懺悔王が何を望んでいたにしろ、当時のイングランドで最も強力な影響力を保持していたアングロサクソン貴族ウェセックス伯ゴドウィンは、ギヨームの主張するいかなる主張に対して反発していた可能性が高い[60]。エドワード王は1043年にゴドウィン伯の娘エディス英語版と結婚しており、エドワードが王位を継承する際にはゴドウィンは彼の有力な支援者の1人となっていたのである[62]。しかし、ゴドウィン伯とエドワード王との関係は悪化し、1051年にはゴドウィン一族はイングランドを離れアイルランドに亡命を強いられることとなった。そしてゴドウィン一族の亡命中に、エドワード王はギヨームに王位継承を約束したのであった[63]。しかし1052年、現地兵を率いてゴドウィン伯はイングランドに帰還し、エドワード王はゴドウィン一族に対しかつての領土・爵位を保証し、またノルマン人聖職者ロバート・オブ・ジュミエージュ英語版カンタベリー大司教からの廃位、並びにスティガンド英語版の大司教座への任命を強いられた[64]。英語文献には、ロバート大司教がギヨーム公へのイングランド王位継承の約定を伝える使節を率いたとの内容は記されておらず、一方のギヨーム・ド・ジュミエージュ英語版ギヨーム・ド・ポアティエ英語版の2人のノルマン人著述家が記した文献にはノルマンディー訪問についての内容が記されている。しかし、この訪問の日時は記されていない[61]

1062年、メーヌ伯エルベール2世英語版が亡くなると、息子ロベールをエルベール伯の妹マルグリッドと婚約させていたギヨームは、息子を通じてメーヌ伯領の継承権を主張した。メーヌの領主たちは反発したものの、1064年にギヨームは、軍を率いて侵攻しメーヌを支配下に置いた[65]。ギヨームは1065年にはノルマン人をルマン司教英語版に任じ、息子ロベールを新たなアンジューの領主ジョフロワ髭伯に臣下の礼を取ることを許可した[66]。ギヨームはこれにより公国西部の国境を安定化させることに成功したが、ブルターニュ公国との国境はいまだ不安定なままであった。そして1064年、ギヨームはブルターニュに侵攻を開始したが、この侵攻についてはいまだ不明な点が多い。ただ、この侵攻によってブルターニュ公国内で混乱が広がったことは確実で、ブルターニュ公コナン2世は外征を行う余裕がなくなり、国内の安定化に追われることとなった。加えて1066年、コナン2世が亡くなったことでノルマンディーの国境はより安定したものとなった。また、ブルターニュ遠征によってギヨームは、1066年に敢行されることとなるノルマン・コンクエストにおいてブルターニュ諸侯の支援を得ることすらできた[67]


Scene from the Bayeux Tapestry whose text indicates William supplying weapons to Harold during Harold's trip to the continent in 1064

1053年、ゴドウィン伯が亡くなった。ゴドウィン伯の領土は息子ハロルド・ゴドウィンソンが継承し、ハロルドの弟トスティ・ゴドウィンソンノーサンブリア伯英語版に就任した。また、1057年にはギルス・ゴドウィンソンイーストアングリア伯英語版に、1055年から1057年の間のいずれかの時期にはレオフウィン・ゴドウィンソン英語版ケント伯に任命された[68]。当時のイングランドの文献には書かれていないものの、当時の文献の中にはハロルドが1064年のギヨーム公のブルターニュ遠征に参加したとする内容が記載されているものもあり、そこではハロルドがギヨーム公に対しイングランド王位の継承の支持を表明したと記されているという[66]。ただ、どのイングランド文献には記載されていないため、これが事実かどうかは不明である。この記述はイングランド王位を主張するギヨームに対して対抗するハロルドに対するプロパガンダであった可能性もある[69]。一方この頃、イングランド王位継承者として新たな人物が名乗りを上げた。かつてのイングランド王:エドマンド剛勇王の息子でエゼルレッド無策王の孫であるエドワード・アシリングである。(1057年に亡命先のハンガリーからイングランドに帰国していた。)エドワードは帰国後すぐに亡くなったものの、エドワードは亡命先から2人の娘マーガレット・オブ・スコットランドクリスティーナ英語版と一人息子のエドガー・アシリングを連れて帰ってきていた[70][注釈 13]

1065年、ノーサンブリアで反乱が勃発英語版し、反乱者たちはトスティの廃位を決定。代わってマーシア伯エドウィの弟モーカー英語版をノーサンブリア伯に任命するという事件が起きた。ハロルドはこの反乱に際し、トスティではなく反乱軍を支援し、エドワード懺悔王に対してトスティを罷免しモーカーをノーサンブリア伯に任命するよう説得したという。これはハロルドの王位継承の際のエドウィ・モーカー兄弟からの支援を確約するためであったとも言われている。廃位に追い込まれたトスティは自身の妻ジュディス(en:Judith of Flanders, Countess of Northumbria、かつてのフランドル伯ボードゥアン4世の娘)の故郷フランドルに亡命した。そんななか、エドワード王は病にかかり、1066年1月5日に崩御した。エドワード王の死の床で起きた出来事については不明な点が多い。エドワード王の生涯について書かれた文献『ウェストミンスターに眠るエドワード王の生涯』(en:Vita Ædwardi Regis)に書かれた話によれば、王の臨終に際して王妃エディス・ハロルド・スティガンド大司教・en:Robert FitzWimarc(王の親類)が立ち合い、王はそこでハロルドを継承者に指名したという。ノルマン文献ではハロルドが王位継承者に指名されたことに対する異論が記されているわけではないが、ハロルドがギヨーム公に対して誓った臣従やエドワード王がかつてギヨーム公に約束した王位継承の約定は、王の臨終の場でも破棄することはできないという内容が記されている。のちの時代のイングランド文献によれば、ハロルドは聖職者や有力諸侯によってイングランド王に選出されたという[72]

イングランド侵攻

ハロルド王の対応

Locations of some of the events in 1066

ハロルド王は1066年1月6日、エドワード王の治世でノルマン建築に基づいて新たに再建されたウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行した。式典を取り仕切った人物については論争が続いている。イングランド文献によれば、ヨーク大司教エルドレッド英語版が戴冠式を挙行したとされるが、ノルマン文献によれば、ローマ教皇から正式な大司教とは認められていなかったスティガンドが挙行したとされている[73]。戴冠式を済ませたハロルドであったが、自身の弟トスティを含む王位継承権主張者が存在していたことから、自身の王としての立場はまだ安定なものではなかった[74][注釈 14]ノルウェー王ハーラル苛烈王もまた、王位継承権を主張する人物の1人であった。先代のノルウェー王でハーラルの甥マグヌス1世は1040年頃、当時のイングランド王ハーデクヌーズと「お互いを互いの王位継承者とし、どちらかが継承者を設けずに死ねば、もう一人が2つの王国を継承する」とする協定を結んでいたことがその根拠であった[78]。もう一人の王位継承権主張者は、ギヨーム公であった。ハロルド王はギヨーム公の侵略に対して最も用心し迎撃の準備を進めていた.[74]

ハロルド王の弟トスティは1066年5月にイングランド南岸に対して偵察目的の襲撃を行い、ボードゥアン伯から授けられた艦隊を用いてワイト島に上陸を敢行した。しかしトスティは地元からの支援をあまり受けることができず、リンカーンシャーハンバーでの襲撃も成功することなかったため、スコットランドに撤退した。ノルマン人著述家ギヨーム・ド・ジュミエージュはギヨーム公がハロルド王に対して使節を派遣し、かつての誓いを思い出すよう伝えたと記しているが、実際に起きた出来事かどうかは明らかでない。ハロルド王は予想されるギヨーム公の侵攻軍に対峙するため、艦隊を集結させた上で夏中イングランド南岸に布陣させ続けた[74]

ギヨーム公の戦仕度

バイユーのタペストリーに描かれたノルマン軍の戦仕度の様子。鎖帷子や槍、鼻当て付兜英語版が輸送されている。

著述家ギヨーム・ド・ポアティエはギヨーム公が招集した評議会にて、イングランド侵攻というリスクを冒すべきかどうか諸侯・支持者たちと相談を重ねたと伝えている。おそらく何らかの形で公式な評議会が開催されたかもしれないが、実際にこの内容が討議されたかどうかは疑わしい。ギヨーム公は既に諸侯を掌握しきっており、評議会に出席した諸侯たちの多くはイングランド征服後の褒賞の確約に必死になっていたであろう[79]。ギヨーム・ド・ポアティエは加えて教皇アレクサンデル2世から侵攻の承認を得て教皇旗をも得ていたと記している。また、この著述家はギヨーム公が遠征の折に神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世デンマーク王スヴェン2世の支援も得ていたと伝えている。しかし、ハインリヒ4世は当時まだ幼く、スヴェン2世はノルウェー王に対抗するためにノルマンディーではなくハロルド王と手を組む可能性が高かったことから、ギヨームのこの主張は慎重に扱われるべき内容であるとされる。また、教皇はノルマンコンクエストが成功裏に終わったのちにギヨーム公(ウィリアム王)に対して教皇の支持を伝えたことは明らかになっているが、その支持がコンクエスト以前から表明されていたことを示す資料は存在しておらず[注釈 15][80]、侵攻後にギヨーム公(ウィリアム王)が行った贖罪やのちの教皇たちの発言・叙述などが、侵攻後の教皇による侵攻承認を裏付ける状況証拠となっている。また、遠征中のノルマンディー統治はマティルダ妃に一任されていた[2]


The Anglo-Saxon Chronicle records fear 'That William the Bastard would come hither'

1066年、夏中をかけてギヨーム公は遠征軍を招集した。著述家ギヨーム・ド・ジュミエージュはノルマンディー艦隊は3000隻に及んだとする明らかに誇張された数字を記録しているが、実際にノルマンディー艦隊の規模は大きなものであったとされ、それらは一から建造されたとされる。ギヨーム・ド・ジュミエージュによると、この艦隊はサン=ヴァレリー=シュル=ソンムで建造されたとしているが、ギヨーム・ド・ポアティエはディヴ川英語版河口で建造されたと記している。ただ、両者ともに艦隊は最終的にサン=ヴァレリー=シュル=ソンムから出陣したと伝えている。この大規模な艦隊には、ギヨーム公の支配下の地域(ノルマンディー・メーヌ)からの部隊・傭兵部隊・同盟国部隊や、ブルターニュ・フランス北東地域・フランドル人など成る義勇兵に加え、ヨーロッパの他の地域から来た小規模な戦士などから構成された遠征軍が搭乗した。ノルマンディー軍並びに艦隊は8月ごろには既に出征の準備が整っていたが、向かい風の影響で9月後半ごろまで出陣を見合わせていた。また、イングランド軍に気づかれることなく上陸を敢行したかったギヨーム公の意に反して、ハロルド王の軍勢がイングランド南岸で待ち構えているとの情報が斥候からもたらされていたことも出征が遅れた原因の一つかもしれない[80] 。ハロルド王は夏中民兵を動員して警戒態勢を敷いていたが、収穫の時期が来たことによって9月8日に民兵をいったん解散した[81]

トスティ・ハーラル苛烈王の侵攻

Modern site of the Battle of Stamford Bridge in the East Riding of Yorkshire

トスティ並びにハーラル苛烈王は1066年9月にノーサンブリアに侵攻を開始し、ヨーク近郊での決戦でエドウィ伯・モーカー伯率いるイングランド軍を撃破した。ハロルド王は北方に侵略軍が上陸したとの報告を受け北進を開始し、9月25日にスタンフォード・ブリッジの戦いでノルウェー軍を撃破し、トスティ・ハーラル王ともども討ち死にに追い込んだ[78]この2日後、遂にノルマン艦隊は出航し9月28日にペヴェンジー湾で抵抗を受けることなく上陸を敢行した。ギヨーム軍はヘイスティングズに向けて東進し、この地で城塞を立てた上で遠征の拠点とし、ノルマンディーとの連携を保つ目的で内陸に向けた進軍をすることなく、ヘイスティングズ城を拠点として周辺地域を略奪するとともにハロルド軍の到着を待った[81]

ヘイスティングズの戦い

スタンフォード・ブリッジでノルウェー軍を撃破したハロルド王はモーカー・エドウィ兄弟を含む戦士の多くを残したうえで、ギヨーム公の軍勢の侵略に対峙すべく残りの部隊を率いて南進した[81]。おそらくハロルド王がギヨーム軍の上陸の報告を受けたのはこの道中であったとされ、ハロルド王はヘイスティングズに進軍する前に途中のロンドンで1週間ほど滞在したことから、一日当たり約43キロメートル[82][83]もの距離を踏破するペースで1週間ほどで南進を行っていたことが分かっている。ハロルド王はスタンフォード・ブリッジの戦いでノルウェー軍に対して行ったように、ギヨーム公に対しても奇襲を仕掛けようと試みたが、それはノルマンディー軍の斥候によって見破られた。戦闘直前の正確な出来事の流れははっきりとは分かっていないが、ギヨーム公がヘイスティングズの砦から出撃し待ち構えるハロルド軍に対して進軍したことは当時のどの著述家も記している[84]。一方のハロルド軍は現在のバトル周辺のあったセンラック丘(ヘイスティングズの砦から約9.7キロメートルの距離)で守りの布陣を固めていた[85]

バイユーのタペストリーの戦闘場面

戦闘は10月14日午前9時ごろに始まり、丸1日続いた。戦闘の大まかな経過は知られているが、当時の文献には戦闘の詳細な状況経過などは記録されていない[86]。両者の規模はほぼ互角であったとされるが、ギヨーム公の軍勢は騎馬隊・歩兵隊がともに属し弓兵も多勢有していたのに対し、ハロルド軍の殆どは歩兵であり、弓隊は全くいなかったか、もしくは若干数だけ存在した程度であったという[87]。ハロルド軍は丘の上で盾の壁英語版戦術を採って迫りくるノルマン軍を迎え撃ち、戦闘序盤はノルマン軍を見事迎撃し多数の死傷させることに成功していた。ギヨーム軍に属していたブレトン人部隊に至っては混乱状態に陥って敗走する始末であり、ハロルド軍の一部は敗走するブレトン人に追撃を敢行し、ノルマン騎馬隊の攻撃を受けるまで追撃を続けた。また、ブレトン部隊が敗走する際、ノルマン軍の間ではギヨーム公が討ち取られたという噂が広まったが、ギヨーム公が兜を脱いで配下の戦士たちに自身の健在を知らせて回ることで、ノルマン軍をうまく鼓舞し士気の喪失を防ぐことに成功した。ギヨーム公はその後2度ほど偽装退却を行い、ハロルド軍の諸部隊を戦列から離脱させ退却するふりをするノルマン軍を追撃させることに成功し、戦列から離脱し孤立したイングランド部隊に対して繰り返し騎馬突撃を行わせた[88]。現在確認できる文献は、午後の出来事についての記述がそれぞれ異なっており議論を呼んでいる。ギヨーム・ド・ジュミエージュによれば、ハロルド王はギヨーム公の手で討ち取られたと記されており、またバイユーのタペストリーにはハロルド王は目に矢を受けたことで戦死したと描かれているが、タペストリーのこの描写の部分自身が「ハロルド王は頭に矢が刺さったことで戦死した」とする内容の12世紀の逸話を基にして再加工された箇所である可能性も考えられている[89]

ハロルド王の亡骸は彼の甲冑、または彼の体の特徴的な痣によって、戦闘の翌日に戦場で発見された。この戦闘で、ハロルド王の弟たち英語版ハスカールたちも戦死していた。ハロルド王の母ギーサ・トルケルドッティル英語版はギヨーム公に対して、ハロルド王の体重分の金と引き換えに息子の亡骸の返却を要望したが、ギヨームはその申し出を断った[注釈 16]。ギヨームはハロルド王の亡骸を海に放り込むよう命じたとされるが、どこでその命令が下されたかは分かっていない。かつてハロルド王が設立したウォルサム修道院(:en:Waltham Abbey)は秘密裏にハロルド王を埋葬したと後に主張している[93]

ロンドン進軍

ヘイスティングズで国王軍を撃破したギヨームは、こののちにイングランド側が降伏してくるだろうと期待していたかもしれないが、ギヨームの期待に反してイングランド側は抵抗を続けた。また、降伏するどころかイングランド人司教や諸侯の中にはエドガー・アシリングを国王としてノルマン軍に対峙する姿勢すら見せたが、アングロサクソン人たちのエドガーへの支援は煮え切らないものであった。イングランド側の降伏を暫く待ったギヨームは、ドーバーカンタベリーを制圧するとともにイングランド王の財宝が眠るウィンチェスターに向けて別動隊を派遣した[94]。これらの地域を制圧することでギヨームは進軍経路の後部地域を自身の支配下に置いたこととなり、また万が一の際のノルマンディーへの退路の確保にもつながったのである[2]。その後、ギヨームはサザークに向けて進軍し、テムズ川を挟んでロンドンの向かい側にあるこの町に11月後半ごろに着陣した。続けて、ギヨームはロンドンの南方・西方に軍を率い、その道中に周辺地域を焼き払った。そして12月上旬にはウォリンフォード英語版でテムズ川を渡河した。この時、スティガンド司教がギヨームに対して臣従を誓った。渡河の後にギヨームはバーカムステッド英語版に向けて進み、それから間もなくして、エドガー・エドウィ・モーカーらがギヨームに臣従を誓った。ギヨームはその後、城塞を建築するためにロンドンに対して軍を派遣した。そして遂に、1066年12月25日、ギヨームはウィリアム1世としてイングランド王としてウェストミンスター寺院で戴冠された英語版[94]

統治の確立

初手

ウィリアム王(以降はウィリアムと記す。)はイングランド王即位後しばらくの間イングランドにとどまり、現地の有力者の調整に当たった。ウィリアム王に臣従を誓ったアングロサクソンの伯爵たち(エドウィン (マーシア伯)モーカー (ノーサンブリア伯)英語版ワルセオフ (ノーサンプトン伯)英語版)はこれまでの爵位と領土を保持することが許された[95]。そしてワルセオフ伯はウィリアム王の姪で王の異母妹アデライードの娘ジュディス英語版と結婚し[96]、エドウィン伯とウィリアム王の娘の1人との婚約も取り決められた。また、エドガー・アシリングにも領土が下賜された。また聖職者に関しては、教会から正式な大司教と認められていなかったスティガンドをはじめとして、侵攻以前の人選がそのまま認められた[95]。しかし、ハロルド王と彼の一族やヘイスティングズでウィリアムと刀を交えた人物の領土は全て没収された[97]。ウィリアム王はイングランドの体制を十分確立したのち、翌年3月にノルマンディーに帰国したが、この時エドウィン伯・モーカー伯・ワルセオフ伯・エドガーはウィリアムに帯同を命じられたという。ウィリアム王は異母弟オドやウィリアム・フィッツオズベルン英語版といった影響力のある支援者たちをイングランドに残した[95]。オドはケント伯に、ウィリアムはヘレフォード伯(もしくはウェセックス伯)に任じられていた[2]。ウィリアム王はこの2人のノルマン人をイングランドにおける総責任者として残したものの、代官たちは現地のイングランド人を据え置いたままであった[97]。ノルマンディーに帰国したウィリアム王はルーアンに向かい、フェカン大聖堂英語版を訪れ[95]、続けて2つの修道院の聖別式に参加した[2]

ウィリアム王がノルマンディーに滞在している中、かつて王の同盟者であったブローニュ伯英語版ウスタシュ2世ドーバーに侵攻し撃退されるという事件が起きた。そしてこれに続いて、イングランド人によるノルマン人への反発が始まり、アングロサクソン人有力者エアドリク(en:Eadric the Wild)がヘレフォードに攻撃を仕掛けるとともに、ハロルド王の母ギーサがエクセターで反乱を開始した[98]。各地で発生した反乱に対し、フィッツオズベルン・オドの両名は現地諸侯の統治の困難さを悟り、イングランド統治の安定化を推し進めるために各地で城砦を立てる計画を実行した[2]。また、1067年12月にはウィリアム王自身もイングランド入りし、ギーサが立て籠るエクセターに向けて進軍し、包囲戦を開始した。ギーサ率いる反乱軍は18日に渡り抵抗をつづけたが、結局陥落し、ウィリアム王はさらなる城砦を建築してエクセター地域の安定化に努めた。一方この頃、ハロルド王の息子たちはアイルランドを拠点としてイングランド南西岸に対する襲撃を継続しており、ブリストルに向けて上陸をも敢行したがノルマン人諸侯の1人エアドノス英語版に撃退された。イースターの頃にウィリアム王はウィンチェスターに到着し、当地でマティルダ王妃(同年5月に王妃として戴冠されていた。)と合流した[98]


アングロサクソンの反乱

The remains of Baile Hill, the second motte-and-bailey castle built by William in York

1068年、エドウィン・モーカー兄弟がゴスパトリック英語版の支援を得て反乱を起こした。オルデリック・ヴィターリスによれば、エドウィン伯が反乱を起こしたのは、エドウィン伯とウィリアム王の娘との結婚が執り行われなかったためであるとしているが、ヘレフォード伯フィッツオズベルンが勢力拡大を危惧したこともその理由の一つかもしれない。ウィリアム王はエドウィン伯の領土を突き抜けて進軍し、ウォリック城を建設した。エドウィン伯・モーカー伯は結局ウィリアム王に降伏したが、ウィリアム王はヨークに進軍を続け、ヨーク城英語版ノッティンガム城を建築した。その後、ウィリアム王は南進し道中にリンカーン城英語版ハンティンドン城英語版ケンブリッジ城英語版を建築し、それらの城砦に自身の家臣を据え置いた。ハンティンドン城主にはウィリアム・ピーヴェレル(en:William Peverel)、ウォリック城主にはヘンリー・ド・ボーモン英語版を任命し、1068年後半にノルマンディーに帰国した[98]

1069年初頭、エドガー・アシリングがウィリアム王に反乱を起こし、ヨークを攻撃した。対するウィリアム王は再びヨークに舞い戻りさらなる城砦を建築したが、エドガーは捕まることなく、秋にイングランドに来襲したデンマーク王スヴェンの艦隊と合流した[注釈 17]デンマーク王は多数の艦隊を率いてイングランドに上陸し、ヨークのみならずシュールズベリーに対しても攻撃した。ヨークはエドガー・スヴェン連合軍により制圧され、エドガーは現地民よりイングランド王であると宣言された。ウィリアム王は迅速に対応し、当時メーヌで起きていた反乱を放置してイングランドに向かい、1069年12月25日にはヨークの廃墟で王冠を被り象徴的に自身が正当な王であることを示した。その後、ウィリアム王はデンマーク軍を押し返し、ティーズ川に向かって進軍したのち向かった先で略奪を繰り広げた。エドガーは支援者の多くを失った後、妹のマーガレットの嫁ぎ先[99]であるスコットランドに亡命した[100]。ワルセオフ伯・ゴスパトリック伯はともにウィリアム王に降伏し、王は両名の領地を安堵した。ウィリアム王はその後ペナイン山脈を超えて進軍し、シュールズベリーで残った反乱軍を撃破したのちチェスター城英語版スタッフォード城英語版を建築した。これらの反乱鎮圧戦役は通常北部の蹂躙として知られている。この戦役は1070年4月まで続き、ウィリアム王は鎮圧後のイースターの日に、ウィンチェスターで儀式的に王冠を被った[100]

教会政策

1070年、ウィリアム王はウィンチェスター滞在中に教皇特使英語版(John Minutus、Peter、Ermenfrid of Sion)と面会し、イースターの際に特使たちはウィリアム王に対して儀式的に王冠を授けた[101]。歴史家David Batesは教皇はこの儀式的な戴冠を通じてノルマンコンクエストを承認したのではないかとしている[2]。特使たちはウィリアム王と教会政策に関する評議会を開催し、イングランドにおける教会人事の再編を進めた。その評議会によってスティガンド大司教と彼の兄弟Bishop of ElmhamÆthelmærは罷免され、

While at Winchester in 1070, William met with three papal legates – John Minutus, Peter, and Ermenfrid of Sion – who had been sent by the pope. The legates ceremonially crowned William during the Easter court.The historian David Bates sees this coronation as the ceremonial papal "seal of approval" for William's conquest.The legates and the king then held a series of ecclesiastical councils dedicated to reforming and reorganising the English church. Stigand and his brother, Æthelmær, the Bishop of Elmham, were deposed from their bishoprics. Some of the native abbots were also deposed, both at the council held near Easter and at a further one near Whitsun. The Whitsun council saw the appointment of Lanfranc as the new Archbishop of Canterbury, and Thomas of Bayeux as the new Archbishop of York, to replace Ealdred, who had died in September 1069.[101] William's half-brother Odo perhaps expected to be appointed to Canterbury, but William probably did not wish to give that much power to a family member.[注釈 18] Another reason for the appointment may have been pressure from the papacy to appoint Lanfranc.[102] Norman clergy were appointed to replace the deposed bishops and abbots, and at the end of the process, only native English bishops remained in office, along with several continental prelates appointed by Edward the Confessor.[101] In 1070 William also founded Battle Abbey, a new monastery at the site of the Battle of Hastings, partly as a penance for the deaths in the battle and partly as a memorial to the dead.[2] At an ecclesiastical council held in Lillebonne in 1080, he was confirmed in his ultimate authority over the Norman church.[103]

イングランド・北フランスでの反乱

デーン人の襲来と反乱

デンマーク王スヴェンは以前にウィリアム王との間でイングランドからの撤退を約束していたが、1070年初頭に再び舞い戻り、ハンバー川沿いやイースト・アングリアを襲撃しながらイーリー島en:Isle of Ely)へと進軍した。そこで彼は地元の領主であるヘリワード・ザ・ウェイクと合流した。ヘリワードの軍勢はピーターバラ大修道院を占領し略奪を行った。しかし、ウィリアム王は1070年のうちにスヴェンと彼の艦隊を撤退させることに成功し[104]、その後フランス大陸へと戻り、1069年にル・マンで発生していた反乱への対処に注力した。しかし、この頃北フランスでは新たな問題が起きつつあった。フランドル伯ボードゥアン6世が1070年7月に死去し、伯位を巡る後継者問題が発生したことであった。フランドル伯国は亡きボードゥアン伯の未亡人リシルド・ド・エノーが幼い息子たち(アルヌールボードゥアン)のために統治していたが、ボードゥアン6世の弟であるロベールがこれに異議を唱えた。リシルドは当時ノルマンディーに滞在していたウィリアム・フィッツオズバーン英語版に結婚を提案し、フィッツオズバーンはそれを受諾した。しかし、1071年2月のカッセルの戦い英語版でフィッツオズバーン・アルヌールが戦死し、フランドル伯はロベールによって継承された。ロベールはウィリアム王の大陸での勢力拡大に反発する立場をとっており、カッセルの戦いによって北フランスの勢力均衡が崩れ、ウィリアムは重要な支持者を失うことになった[105]

1071年、ウィリアム王は北部での最後の反乱を鎮圧した。反乱に失敗したエドウィ伯は落ち延びる道中で自身の家臣の裏切りに遭い殺害され、時を同じくしてウィリアム王はイーリー島へ進軍した。イーリー島にはヘリワードとモーカー伯が立て籠っており、彼らを制圧するために堤道を建設した。ヘリワードは脱出に成功したものの、モーカー伯は捕らえられ、伯爵位を剥奪された上で投獄された。翌年1072年、ウィリアム王はスコットランドへ侵攻し、アルバ王マルカム3世を撃破した。マルカム王はこの直前に北イングランドへ侵攻していたが、この敗北によりウィリアム王とアバネシーの和約を締結し、イングランドと講和を取り決めた。この条約の一環として、マルカム王は自身の息子ダンカンを人質として差し出したとも考えられている。またマルカム王は、アバネシーでの講和条約の一環で自身の宮廷でかくまっていたウィリアムの敵対者でウェセックス王家のイングランド王位継承権所有者エドガー・アシリングを追放した可能性も考えられている[106]。その後、ウィリアム王は大陸での問題に対処するため、1073年初頭にノルマンディーへ戻った。アンジュー伯フルク4世がメーヌへ侵攻したため、ウィリアム王は迅速な軍事作戦を展開し、1073年3月30日までにル・マンを奪還した。これによりウィリアムの北フランスでの支配がさらに強固なものとなったが、新たなフランドル伯ロベールはこの頃にスコットランドを発ったエドガー・アシリングを自身の宮廷で匿ったとされる。さらに、ロベール伯は勢力拡大を進めるノルマン人と対立していた当時のフランス王フィリップ1世に対して異母妹ベルトを嫁がせた[107]

ウィリアム王は1073年にイングランドへ向かい、徴兵していた軍を解散させたのち、すぐにノルマンディーへ戻り、1074年の1年間を大陸で過ごした[108]。彼はノルマンディーに帰国する際、イングランドの統治をリチャード・フィッツギルバート英語版サリー伯ウィリアム英語版[109]、そして大司教ランフランクスらに委ねた[110]。このことは、ウィリアム王が自身のイングランド支配の安定を確信していたことを示している[109]

ウィリアム王がノルマンディーにいる間、エドガー・アシリングはフランドルからスコットランドへ戻った。一方でフランス王フィリップ1世はウィリアムに敵対する勢力の象徴としてエドガーを利用しようとし、彼にモントレイユ=シュル=メール地域の城を与えようとした。これはイングランド南岸を狙う戦略的拠点となる可能性があった[111]。しかし、エドガーはすぐにウィリアム王に降伏し、ノルマン人の宮廷へ戻ることを余儀なくされた[108][注釈 19]。フィリップ1世はこの計画が失敗すると、今度はブルターニュに目を向け、1075年の諸侯の反乱につながる反乱を支援した[111]

諸伯の反乱(1075年)

Norwich Castle. The keep dates to after the Revolt of the Earls, but the castle mound is earlier.[112]

1075年、ノーフォーク伯ラルフ英語版ヘレフォード伯英語版ロジャー英語版らがウィリアム王の廃位を目論み、諸伯の反乱en:Revolt of the Earls)と呼ばれる反乱を起こした[110]。ラルフ伯にはブルトン人の血がいくらか流れている混血貴族であり、1066年以前は多くの時をブルターニュで過ごしていたとされ、ノーフォーク伯領のみならず故郷のブルターニュにもまだ領土を有していた[113]。一方のロジャーは、ウィリアム王の右腕であったノルマン貴族ウィリアム・フィッツオズバーンの息子であったが、父フィッツオズバーンが有していた権力の一部しか継承することができていなかった[114]。またラルフ伯自身も前任のノーフォーク伯と同程度の権力を握れておらず、これらが反乱に関連している可能性が高い[113]

ただ、反乱がおきた正確な理由は分かっていない。この反乱はサッフォークのen:Exning村で開かれたラルフとロジャーの親戚との結婚式の際に引き起こされた。この反乱には、ウィリアム王の寵愛を受けていたノーサンブリア伯ワルセオフが参加したとされ、また一部のブルトン人もラルフ・ロジャーの反乱を支援する仕度を整えていた。ラルフはまたデーン人にも助太刀を依頼した。ノルマンディーに居たウィリアム王は、自身はノルマンディーに留まり続け、イングランドに残した諸侯たちに対応を任せていた。結局、ウスター司教英語版ウルフスタン英語版イブシャム大修道院長英語版エゼルウィグ英語版率いる軍勢に包囲されたロジャーはヘレフォードシャーの自身の砦から出ることができず、ラルフもまた、バイユー司教オド(ウィリアム王の異父弟)、クンタス司教英語版ジョフロワ・ド・モンブレ英語版、リチャード・フィッツギルバート、サリー伯ウィリアムらの軍勢に包囲されてノーウィッチ城英語版に立てこもった。ラルフはノーウィッチ統治を妻に任せた上でイングランドを離れ、ブルターニュに向かった。ノーウィッチ城は結局攻め落とされた上で降伏し、守備兵はブルターニュへの立ち退きが認められた。一方この頃、デンマーク王の弟クヌートが200隻の艦隊を率いてイングランドに到着したが、時すでに遅くノーウィッチは既に降伏した後であった。デーン人は沿岸部を荒らした後にデンマークに帰還した[110]。ウィリアム王は1075年後半、マティルダ王妃をノルマンディーに残してイングランドに向かい、デーン人の襲撃に対処した。同年12月25日にはウィンチェスターでクリスマスを祝い、その後は反乱の後始末を済ませた[115]。ロジャー伯とワルセオフ伯は投獄され、ワルセオフ伯は1076年5月に処刑された。ウィリアム王はこれ以前にノルマンディーに帰国したが、ラルフ伯は依然としてブルターニュで反乱を継続した[110]

国内外での問題

ブルターニュに戻ったラルフ伯はドル=ド=ブルターニュの城を制圧しており、1076年9月にウィリアム王はラルフ討伐のためにブルターニュ入りし、ラルフの城を包囲した。これに対して、フランス王フィリップは軍を動かしてドルを包囲するノルマン軍を撃破した。ウィリアム王はノルマンディーに撤退を強いられたが、ウィリアム王の最初の黒星となったこの戦いは体制を覆すには至らなかった。1076年/または1077年、アンジュー伯フルクはメーヌに攻撃を仕掛けたが、ノルマン人はフルク伯自身に傷を負わせたうえで撃退した。またこの頃、アミアン伯英語版シモン・ド・クレピーが隠居し、フランス王国・ノルマンディー公国の緩衝地帯であるヴェクサン領をフランス王に返上するという事件が起きた。シモン伯はウィリアム王の支援者であったが、このヴェクサン領はシモン伯がフィリップ王の家臣として治める領土であったため、彼が隠居して隠遁生活に入るに際して、フランス王国に併合されたのであった[116]。1077年、ウィリアム王はフランス王と講和し、同年暮れまたは1078年初頭にはアンジュー伯とも講和を締結した[116]

1077年末から1078年初めにかけて、ウィリアム王とその長男ロベールの間に対立が生じた。オルデリック・ヴィターリスは、この対立がウィリアム王の他の息子たち、ウィリアム(後のウィリアム2世)・ヘンリー(後のヘンリー1世)との口論から始まったと記しており、特に、ウィリアムとヘンリーがロベールに水をかけたことで喧嘩が始まったという逸話を伝えている。しかし、実際にはロベールが自身の無力感に苛まれていたことが、対立の真の要因だったと考えられる。オルデリックによれば、ロベールは以前からメーヌとノルマンディーの統治権を要求していたが、ウィリアムに拒否されていた。この不満が募った結果、1077年または1078年にロベールはノルマンディーを離れ、一団を率いて反乱を起こした。この一団には、ウィリアムの支持者たちの息子が多数含まれており、シュルーズベリー伯ロバート英語版ギヨーム・ド・ブルトイユ英語版、リチャード・フィッツギルバートの息子ロジャーらが名を連ねていた。彼らはレマラール英語版の城に拠点を置き、ノルマンディーへの襲撃を開始した。さらに、この反乱軍はウィリアムの大陸側の敵から支援を受けていた[117]。ウィリアム王は直ちに反乱鎮圧に乗り出し、レマラールから彼らを追い払った。しかし、フランス王フィリップ1世がロベールにジェルブロワ城(en:Gerberoi)を提供したため、反乱軍は同地で勢力を立て直した。ウィリアム王は1079年1月にジェルブロワを包囲したが、3週間後に城内の兵が奇襲(包囲戦術においてen:Sortieと呼ばれる戦術。)を仕掛け、ウィリアム軍を不意打ちした。この戦いでロベールはウィリアムを馬から突き落とし、彼の命を危険にさらした。しかし、イングランド人のイングランド人戦士トキ英語版がウィリアムを救出し、王に新しい馬を与え逃がすことに成功したがトキ自身はクロスボウに射抜かれて戦死した[118]。ウィリアム軍は包囲を解きルーアンへ撤退した。その後、1080年4月12日までにウィリアムとロベールは和解に達し、ウィリアムは改めてロベールに自身の死後のノルマンディーの相続を約束した[119]

1087年時点でのウィリアム王の領土

ジェルブロワの戦いでの敗北が伝わると、北イングランドでは混乱が生じた。1079年8月から9月にかけて、スコットランド王マルコム3世がツイード川南方へ侵攻し、ティーズ川とツイード川の間の土地を約1か月間にわたり荒らした。しかし、ノルマン軍がこれに有効な対策を講じなかったため、ノーサンブリアの住民たちは不満を募らせ、1080年春に反乱を起こした。この反乱の最中、ダラム司教英語版でありノーサンブリア伯でもあったen:Walcherが1080年5月14日に殺害された。この事態を収拾するためにウィリアムは異母弟のオドを派遣した[120]。ウィリアム王自身は1080年7月にノルマンディーを出発し[121]、秋には息子ロベールがスコットランド遠征を実施した。ロベールはローティアンを襲撃し、マルコム3世に和平を強制した。また、帰還途中にニューカッスル・アポン・タインの「新城」(Novum CastellumまたはNew Castleとして知られている。)を築いた[120]。1080年のクリスマスにはウィリアムはグロスターに滞在し、1081年の聖霊降臨祭(ホイットサン)にはウィンチェスターで王冠を戴いた。ちょうどこの時期、教皇の使節団がイングランドを訪れウィリアムに対し教皇に忠誠を誓うよう求めたが、彼はこれを拒否した。ウィリアムは1081年にウェールズを訪問した。この遠征の目的については、イングランドとウェールズの史料で見解が異なっている。『アングロ・サクソン年代記』では軍事遠征とされている一方、ウェールズの記録では聖デイヴィッドに敬意を表するためにセント・デイビッズに巡礼目的で向かったものだったとされる。しかし、ウィリアム王の伝記を書いた歴史家デイヴィッド・ベイツは、前者の軍事遠征説がより妥当だと指摘している。なぜなら、当時ウェールズの勢力バランスが変化しており、ウィリアムはこの機に乗じてノルマン勢力の拡大を狙った可能性が高いからである。その後、ウィリアムは1081年末までに大陸へ戻りメーヌ地方の混乱に対処した。彼はメーヌへ遠征を行ったものの、結果的には教皇使節の仲介による和平協定が結ばれた[122]

晩年

1082年から1084年にかけてのウィリアム王の動向についての情報は乏しい。歴史家デイヴィッド・ベイツによれば、これはおそらく特筆すべき出来事が起きなかったことを意味しており、またウィリアム王がこの時イングランドではなくノルマンディーに滞在していたことから『アングロサクソン年代記』に記すべき事柄も存在しなかったことが原因だとしている[123]。1082年、ウィリアム王は彼の異母弟オドの逮捕を命じた。この頃の文献に彼らが対立していたことを示す記述はされていないため、命令の理由は詳しくは分かっていない。オルデリック・ヴィターリスはのちに記した文献で、「オドはローマ教皇になるという願望を抱いており、それを達成するためにウィリアム王の家臣たちに対して南イタリア遠征に加わるよう説得を試みていた」という。これはウィリアム王の家臣に対する権限を脅かすこととなり、またウィリアム王の容認を受けていない行為であったとされる。オドはその後亡くなるまで監禁状態に置かれたが、彼の領土は没収されなかったという。1083年には、ウィリアム王の長男ロベールが再びフランス王のさらなる支援を得て反乱を起こした。またちょうどこの頃、ウィリアム王の王妃マティルダが亡くなった。彼女は生涯にわたりウィリアム王と仲睦まじかったとされ、マティルダの死はウィリアム王に追い打ちをかける一件となった[124]

また、メーヌ地域もまた問題がくすぶっていた。メーヌ・ボーモン地方の貴族ユベール(en:Hubert de Beaumont-au-Maine)が1084年ごろにウィリアム王に対して反乱を起こしたのである。ユベールはサント=シュザンヌの居城でウィリアム王の軍勢に2年以上包囲され続け英語版、最終的には王との講和に取り付けたことで解放された。その後の1084年から1085年にかけてのウィリアム王の動向は不明確である。1084年のイースターの日にはノルマンディーに滞在していたとされるが、それ以前にイングランドに渡り、デンマーク王クヌーズ4世のイングランド侵攻計画に対する防衛費 デーンゲルド英語版 を徴収した可能性も考えられている。デンマーク軍の侵攻に備え、ウィリアム王はイングランド軍並びにノルマン軍を1086年に入ってもなお動員し続けたが、1086年7月にクヌーズ王自身が亡くなったことを受けて解散された[125]

国王ウィリアム

イングランドでの諸制度の変革

ロンドン塔の中核をなすホワイトタワー英語版。ロンドン塔における天守閣的な存在で、ウィリアム王の頃に建築が始められた[126]

ウィリアム王はイングランド統治を安定的なものにすべく、国中にキープモット・アンド・ベイリーを建築させ、その中心的な存在となったのはロンドン塔の中核をなすホワイトタワー英語版である。これらの防衛設備のおかげでノルマン人領主たちは万が一の際に非難すべき場所を確保でき、また領土の田舎が反乱軍に制圧されようとも中心地を守り抜くことができた。これらの初期の諸城は土や木材などを基に建築された単純な形式のものであったが、時代が下るにしたがって石造の城に建て替えられていった[127]

遠征から間もないころ、イングランドに土地を与えられたノルマン人貴族たちは、自身も家で養っている騎士たちをイングランドに連れてきていたもののイングランドに土地を与えていなかった。しかし、徐々に騎士たちは再授封英語版を経てイングランドに土地を与えられていった。また、ウィリアム王は新たに創設した大領主たちに対して、軍事遠征だけでなく城塞の守備のために定められた数の騎士を提供させた。この軍事組織は遠征前に施行されていたハイドと呼ばれる土地単位に基づく軍役制度とは大きく異なる制度であった[128]

ウィリアム王は崩御するまでに間に、度重なる反乱の鎮圧を経てアングロサクソン人貴族をノルマン人・大陸系貴族と置き換えていった。ただし、ウィリアム王の遠征に随行した全ての貴族が大規模な土地を得たわけではなく、中には完全に平定されたとは言い難いイングランドという国に領土を持つことに商況的なものも存在した。また、イングランドに土地を得た者の中にはウィリアム王の近親者や上流貴族もいたが、比較的立場の低い出自を持つ者も存在した[129]。ウィリアム王はこのように家臣たちにイングランドの土地を授与する際、1,2人のイングランド人の所有地をそのまま授与することもあれば、複数人の所領をまとめて戦略的に重要な城塞の周辺に土地を集中させたうえで授与することもあった[130]

中世の著述家マームズベリのウィリアムによれば、ウィリアム王は狩猟場としてニューフォレストを創設する際、36教区にもわたる広大な土地から居住民を追い出したという。現代の歴史家はニューフォレスト創設の際の住民追放政策はひどく誇張されていると結論づけている。ニューフォレストの大部分の地域は農業に適さない土地で地理学的研究によれば創設以前から人口が少なかった可能性が高い[131]。ウィリアム王は狩りを好み、森林法を制定して狩りの権利や動物の種類の制約などを課したという[132]


統治体制

ウィリアム征服王時代のイングランド硬貨

After 1066, William did not attempt to integrate his separate domains into one unified realm with one set of laws. His seal from after 1066, of which six impressions still survive, was made for him after he conquered England and stressed his role as king, while separately mentioning his role as duke.[注釈 20] When in Normandy, William acknowledged that he owed fealty to the French king, but in England no such acknowledgement was made – further evidence that the various parts of William's lands were considered separate. The administrative machinery of Normandy, England, and Maine continued to exist separate from the other lands, with each one retaining its own forms. For example, England continued the use of writs, which were not known on the continent. Also, the charters and documents produced for the government in Normandy differed in formulas from those produced in England.[133]

William took over an English government that was more complex than the Norman system. England was divided into shires or counties, which were further divided into either hundreds or wapentakes. Each shire was administered by a royal official called a sheriff, who roughly had the same status as a Norman viscount. A sheriff was responsible for royal justice and collecting royal revenue.[55] To oversee his expanded domain, William was forced to travel even more than he had as duke. He crossed back and forth between the continent and England at least 19 times between 1067 and his death. William spent most of his time in England between the Battle of Hastings and 1072; after that, he spent the majority of his time in Normandy.[134][注釈 21] Government was still centred on William's household; when he was in one part of his realms, decisions would be made for other parts of his domains and transmitted through a communication system that made use of letters and other documents. William also appointed deputies who could make decisions while he was absent, especially if the absence was expected to be lengthy. Usually, this was a member of William's close family – frequently his half-brother Odo or his wife Matilda. Sometimes deputies were appointed to deal with specific issues.[135]

William continued the collection of danegeld, a land tax. This was an advantage for William and the only universal tax collected by western European rulers during this period. It was an annual tax based on the value of landholdings and could be collected at differing rates. Most years saw the rate of two shillings per hide, but in crises, it could be increased to as much as six shillings per hide.[136] Coinage across his domains continued to be minted in different cycles and styles. English coins were generally of high silver content, with high artistic standards, and were required to be re-minted every three years. Norman coins had a much lower silver content, were often of poor artistic quality, and were rarely re-minted. In England, no other coinage was allowed, while on the continent other coinage was considered legal tender. Nor is there evidence that many English pennies were circulating in Normandy, which shows little attempt to integrate the monetary systems of England and Normandy.[133]

Besides taxation, William's large landholdings throughout England strengthened his rule. As King Edward's heir, he controlled all of the former royal lands. He also retained control of much of the lands of Harold and his family, which made the king the largest secular landowner in England by a wide margin.[注釈 22]

Domesday Book

A page from the Domesday Book for Warwickshire

At Christmas 1085, William ordered the compilation of a survey of the landholdings held by himself and by his vassals throughout his kingdom, organised by counties. It resulted in a work now known as the Domesday Book. The listing for each county gives the holdings of each landholder, grouped by owners. The listings describe the holding, who owned the land before the Conquest, its value, its tax assessment, and usually the number of peasants, ploughs, and any other resources the holding had. Towns were listed separately. All the English counties south of the River Tees and River Ribble are included. The whole work seems to have been mostly completed by 1 August 1086, when the Anglo-Saxon Chronicle records that William received the results and that all the chief magnates swore the Salisbury Oath, a renewal of their oaths of allegiance.[138] William's motivation in ordering the survey is unclear, but it probably had several purposes, such as making a record of feudal obligations and justifying increased taxation.[2]

Death and aftermath

William left England towards the end of 1086. Following his arrival back on the continent he married his daughter Constance to Duke Alan of Brittany, in furtherance of his policy of seeking allies against the French kings. William's son Robert, still allied with the French king, appears to have been active in stirring up trouble, enough so that William led an expedition against the French Vexin in July 1087. While seizing Mantes, William either fell ill or was injured by the pommel of his saddle.[139] He was taken to the priory of Saint Gervase at Rouen, where he died on 9 September 1087.[2] Knowledge of the events preceding his death is confused because there are two different accounts. Orderic Vitalis preserves a lengthy account, complete with speeches made by many of the principals, but this is likely more of an account of how a king should die than of what actually happened. The other, the De obitu Willelmi, or On the Death of William, has been shown to be a copy of two 9th-century accounts with names changed.[139]

William's grave before the high altar in the Abbaye-aux-Hommes, Caen

William left Normandy to Robert, and the custody of England was given to William's second surviving son, also called William, on the assumption that he would become king. The youngest son, Henry, received money. After entrusting England to his second son, the elder William sent the younger William back to England on 7 or 8 September, bearing a letter to Lanfranc ordering the archbishop to aid the new king. Other bequests included gifts to the Church and money to be distributed to the poor. William also ordered that all of his prisoners be released, including his half-brother Odo.[139]

Disorder followed William's death; everyone who had been at his deathbed left the body at Rouen and hurried off to attend to their own affairs. Eventually, the clergy of Rouen arranged to have the body sent to Caen, where William had desired to be buried in his foundation of the Abbaye-aux-Hommes. The funeral, attended by the bishops and abbots of Normandy as well as his son Henry, was disturbed by a citizen of Caen who alleged that his family had been illegally despoiled of the land on which the church was built. After hurried consultations, the allegation was shown to be true, and the man was compensated. A further indignity occurred when the corpse was lowered into the tomb. The corpse was too large for the space, and when attendants forced the body into the tomb it burst, spreading a disgusting odour throughout the church.[140]

William's grave is marked by a marble slab with a Latin inscription dating from the early 19th century. The tomb has been disturbed several times since 1087, the first time in 1522 when the grave was opened on orders from the papacy. The intact body was restored to the tomb at that time, but in 1562, during the French Wars of Religion, the grave was reopened and the bones scattered and lost, with the exception of one thigh bone. This lone relic was reburied in 1642 with a new marker, which was replaced 100 years later with a more elaborate monument. This tomb was again destroyed during the French Revolution but was eventually replaced with the current ledger stone.[141][注釈 23]

Legacy

Statue of William the Conqueror in Falaise, France

The immediate consequence of William's death was a war between his sons Robert and William over control of England and Normandy.[2] Even after the younger William's death in 1100 and the succession of his youngest brother Henry as king, Normandy and England remained contested between the brothers until Robert's capture by Henry at the Battle of Tinchebray in 1106. The difficulties over the succession led to a loss of authority in Normandy, with the aristocracy regaining much of the power they had lost to the elder William. His sons also lost much of their control over Maine, which revolted in 1089 and managed to remain mostly free of Norman influence thereafter.[143]

The impact on England of William's conquest was profound; changes in the Church, aristocracy, culture, and language of the country have persisted into modern times. The Conquest brought the kingdom into closer contact with France and forged ties that lasted throughout the Middle Ages. Another consequence of William's invasion was the sundering of the formerly close ties between England and Scandinavia. William's government blended elements of the English and Norman systems into a new one that laid the foundations of the later medieval English kingdom.[144] How abrupt and far-reaching the changes were is still a matter of debate among historians, with some such as Richard Southern claiming that the Conquest was the single most radical change in European history between the Fall of Rome and the 20th century. Others, such as H. G. Richardson and G. O. Sayles, see the changes as much less radical.[145] The historian Eleanor Searle describes William's invasion as "a plan that no ruler but a Scandinavian would have considered".[146]

William's reign has caused historical controversy since before his death. William of Poitiers wrote glowingly of William's reign and its benefits, but the obituary notice for William in the Anglo-Saxon Chronicle condemns William in harsh terms.[145] During the reign of Queen Elizabeth I, Archbishop Matthew Parker saw the Conquest as having corrupted a purer English Church, which Parker attempted to restore. During the 17th and 18th centuries, some historians and lawyers saw William's reign as imposing a "Norman yoke" on the native Anglo-Saxons, an argument that continued during the 19th century with further elaborations along nationalistic lines. These controversies have led to William being seen by some historians either as one of the creators of England's greatness or as inflicting one of the greatest defeats in English history. Others have viewed him as an enemy of the English constitution, or alternatively as its creator.[147]

Family and children

William and his wife Matilda had at least nine children.[49] The birth order of the sons is clear, but no source gives the relative order of birth of the daughters.[2]

  1. Robert was born between 1051 and 1054, died on 10 February 1134.[49] Duke of Normandy, married Sybilla, daughter of Geoffrey, Count of Conversano.[148]
  2. Richard was born before 1056, died around 1075.[49]
  3. William was born between 1056 and 1060, died on 2 August 1100.[49] King of England, killed in the New Forest.[149]
  4. Henry was born in late 1068, and died on 1 December 1135.[49] King of England, married Edith, daughter of Malcolm III of Scotland. His second wife was Adeliza of Louvain.[150]
  5. Adeliza (or Adelida,[151] Adelaide[150]) died before 1113, reportedly betrothed to Harold Godwinson, probably a nun of Saint Léger at Préaux.[151]
  6. Cecilia (or Cecily) was born before 1066, died 1127, Abbess of Holy Trinity, Caen.[49]
  7. Matilda[2][151] was born around 1061, died perhaps about 1086.[150] Mentioned in the Domesday Book of 1086 as a daughter of William.[49]
  8. Constance died 1090, married Alan IV, Duke of Brittany.[49]
  9. Adela died 1137, married Stephen, Count of Blois.[49]
  10. (Possibly) Agatha, the betrothed of Alfonso VI of León and Castile.[注釈 24]

There is no evidence of any illegitimate children born to William.[155]

Notes

  1. ^ 古ノルマン語英語版表記ではWilliame古英語表記ではWillelmである[1]
  2. ^ 非ノルマン文献では通常bastardus(庶子王)として説明されている[2]
  3. ^ ウィリアムは英語読みの名であり、ノルマンディーを含むフランス地域ではギヨームと呼ぶ。
  4. ^ Although the chronicler William of Poitiers claimed that Edward's succession was due to Duke William's efforts, this is highly unlikely, as William was at that time practically powerless in his own duchy.[2]
  5. ^ ギヨームの正確な誕生の時期は当時のノルマン諸文献の内容の矛盾によりはっきりしていない。オルデリック・ヴィターリス英語版の文献ではギヨーム(ウィリアム王)が崩御した際の年齢が64歳であったとされているから、この内容からはギヨームの誕生は1023年頃であると推測できる。しかし、オルデリックは1035年にギヨームの父ロベール1世がエルサレムに巡礼の旅に出た際にギヨームが8歳であったとも記しており、この内容からはギヨームが誕生したのは1027年であると推測できる。マームズベリのウィリアムはロベール1世の出立の際にギヨームが7歳であったと記していることから、彼の文献からはギヨームの誕生年が1028年であったと推測できる。en:De obitu Willelmiという文献には、1087年の崩御の際にギヨーム(ウィリアム王)は59歳であったと記されており、この内容からは1027年若しくは1028年が生誕年であると推測できる[10]
  6. ^ このことより、エマ・オブ・ノルマンディーはギヨームの大叔母で、エドワード懺悔王は彼の従兄弟であった[11][12]
  7. ^ この娘はのちにen:La Ferté-Macéの領主ギヨームと結婚した[10]
  8. ^ ゴーティエには2人の娘がおり、片方は尼に、もう片方はRalph Tessonに嫁いだ[10]
  9. ^ How illegitimacy was viewed by the church and lay society was undergoing a change during this period. The Church, under the influence of the Gregorian reform, held the view that the sin of extramarital sex tainted any offspring that resulted, but nobles had not totally embraced the Church's viewpoint during William's lifetime.[19] By 1135 the illegitimate birth of Robert of Gloucester, son of William's son Henry I of England, was enough to bar Robert's succession as king when Henry died without legitimate male heirs, even though he had some support from the English nobility.[20]
  10. ^ The reasons for the prohibition are not clear. There is no record of the reason from the Council, and the main evidence is from Orderic Vitalis. He hinted obliquely that William and Matilda were too closely related, but gave no details, hence the matter remains obscure.[43]
  11. ^ The exact date of the marriage is unknown, but it was probably in 1051 or 1052, and certainly before the end of 1053, as Matilda is named as William's wife in a charter dated in the later part of that year.[45]
  12. ^ The two monasteries are the Abbaye-aux-Hommes (or St Étienne) for men which was founded by William in about 1059, and the Abbaye aux Dames (or Sainte Trinité) for women which was founded by Matilda around four years later.[48]
  13. ^ アシリング(Ætheling)とは、「王家の王子」という意味の称号であり、通常は国王の弟やまだ王位を継承していない息子に付与されていた[71]
  14. ^ エドガー・アシリングもまた王位を主張する人物の1人であったが[75]、彼は1066年の時点で14歳であり、王位継承にはまだ若すぎた[76][77]
  15. ^ The Bayeux Tapestry may depict a papal banner carried by William's forces, but this is not named as such in the tapestry.[80]
  16. ^ William of Malmesbury states that William did accept Gytha's offer, but William of Poitiers states that William refused the offer.[90] Modern biographers of Harold agree that William refused the offer.[91][92]
  17. ^ 中世ヨーロッパの年代記では11世紀に起きた出来事に関して季節単位で発生時期を記しているため、より厳密な時期の特定は不可能とされる。
  18. ^ The historian Frank Barlow points out that William had suffered from his uncle Mauger's ambitions while young and thus would not have countenanced creating another such situation.[102]
  19. ^ エドガーは1086年に南イタリアのノルマン系公国に向かうまでウィリアム王の宮廷に留まった[108]
  20. ^ The seal shows a mounted knight and is the first extant example of an equestrian seal.[133]
  21. ^ Between 1066 and 1072, William spent only 15 months in Normandy and the rest in England. After returning to Normandy in 1072, he spent around 130 months in Normandy as against about 40 months in England.[134]
  22. ^ In Domesday Book, the king's lands were worth four times as much as the lands of his half-brother Odo, the next largest landowner, and seven times as much as Roger of Montgomery, the third-largest landowner.[137]
  23. ^ The thigh bone currently in the tomb is assumed to be the one that was reburied in 1642, but the Victorian historian E. A. Freeman was of the opinion that the bone had been lost in 1793.[142]
  24. ^ William of Poitiers relates that two brothers, Iberian kings, were competitors for the hand of a daughter of William, which led to a dispute between them.[152] Some historians have identified these as Sancho II of Castile and his brother García II of Galicia, and the bride as Sancho's documented wife Alberta, who bears a non-Iberian name.[153] The anonymous vita of Simon de Crépy instead makes the competitors Alfonso VI of León and Robert Guiscard, while William of Malmesbury and Orderic Vitalis both show a daughter of William to have been betrothed to Alfonso "king of Galicia" but to have died before the marriage. In his Historia Ecclesiastica, Orderic specifically names her as Agatha, "former fiancee of Harold".[152][153] This conflicts with Orderic's own earlier additions to the Gesta Normannorum Ducum, where he instead named Harold's fiance as William's daughter, Adelidis.[151] Recent accounts of the complex marital history of Alfonso VI have accepted that he was betrothed to a daughter of William named Agatha,[152][153][154] while Douglas dismisses Agatha as a confused reference to known daughter Adeliza.[49] Elisabeth van Houts is non-committal, being open to the possibility that Adeliza was engaged before becoming a nun, but also accepting that Agatha may have been a distinct daughter of William.[151]

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References

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安息香酸/砂場5


9 September1087

爵位・家督
先代
Edgar Ætheling
King of England
1066–1087
次代
William II
先代
Robert I
Duke of Normandy
1035–1087
次代
Robert II

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