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横須賀・総武快速線編集イメージ
それぞれの1時間あたりの運行本数は、横須賀線区間が4 - 6本、総武快速線区間5 - 6本である。ただし、横須賀線区間の逗子駅 - 久里浜駅間は逗子駅発着の2 - 3本の代わりに、同駅間の区間列車2 - 3本と久里浜駅発着横須賀・総武快速線直通列車1- 2本となり、この区間のみ20分間隔である。逗子駅 - 間おいては、横須賀線列車に
- 逗子駅 - 戸塚駅間:湘南新宿ライン横須賀線 -宇都宮線直通列車が2本。
- 戸塚駅 - 武蔵小杉駅間:湘南新宿ライン横須賀線 - 宇都宮線直通列車が2本と同東海道線 - 高崎線直通列車[注 1]2本。
- 武蔵小杉駅 - 西大井駅間:湘南新宿ライン列車4本と相鉄線直通列車(相鉄・JR直通線)2本。
が加わり、逗子駅 - 戸塚駅間が6 - 8本、戸塚駅 - 武蔵小杉駅間が8 - 10本、武蔵小杉駅 - 西大井駅間が10 - 12本となる。
方向および区間表記と接続点の編集イメージ
- 冒頭文の編集イメージ1
本稿では、これらの施策やそれ以降の歴史や列車(横須賀線・総武快速線いずれかで完結するものや、一部区間で線路を共有するものを含む)などの説明を主体として記述する。また、横須賀線[注 2]と総武快速線の起点駅がいずれも東京駅であり、そこで上下が変化するため、駅名や列車の走行区間などの区間表記順は、特記事項がない限り駅ナンバリングの付番順に従い久里浜駅 →(横須賀線)→東京駅→(総武快速線)→千葉駅の順とし、両線直通列車の線区表記順も横須賀線→総武快速線の順を基本として記述する(ただし、例外あり。詳細は後述)。
- 冒頭文の編集イメージ2
本稿では、両線の輸送力増強計画以降の歴史や列車(横須賀線・総武快速線いずれかで完結するものや、一部区間で線路を共有するものを含む)などの説明を主体として記述する。また、横須賀線(東京駅 - 大船駅間は東海道本線に属する)と総武快速線はいずれも東京駅を起点駅[注 3]としているため、そこで上下が変化する。よって駅名や列車の走行区間などの区間表記順は、特記事項がない駅ナンバリングの付番順に従い久里浜駅 →(横須賀線)→東京駅→(総武快速線)→千葉駅の順とし、両線直通列車の線区表記順も横須賀線→総武快速線の順を基本として記述する(ただし、例外あり。詳細は後述)。
- === 方向および区間表記 ===
- 編集イメージ1
一般的に日本の鉄道では当該路線の起点駅から離れていく列車を「下り」、その逆を「上り」としている。横須賀線は正式な起点駅は大船駅であるが、東京駅 - 大船駅間に属している東海道本線及び総武本線の起点駅はそれぞれ東京駅である。よって、両線は東京駅で上下が変化する。この現象は京浜東北線(正式路線の東海道本線と東北本線の起点駅が東京駅)や中央・総武緩行線()と同様であるが、本系統は京浜東北線の「北行」「南行」や中央・総武緩行線の「東行」「西行」ような表現は使われていないため、本稿における路線の方向表記は、各書籍などの基本表記順である起点駅側→終点駅側の順を用いると、以下のような表記となる。
- 横須賀線の場合:東京駅(大船駅)→久里浜駅方面が「下り」、久里浜駅(大船駅)→東京駅方面が「上り」
- 総武快速線の場合:東京駅→千葉駅方面が「下り」、千葉駅→東京駅方面が「上り」
なお、本稿における区間表記順は冒頭文を基本とし、○○発○○行きと記述する場合は、方向を示す(上下など)記述は用いない<ref group="例示">基本表記例<br>・横須賀・総武快速線は久里浜駅 - 千葉駅の全区間で運行される<br>・「エアポート成田」は久里浜駅 - 成田空港駅間で運行された<br>・成田発逗子行きの通勤快速<br>・特急「成田エクスプレス」は、大船駅 - 千葉駅間で同線を走行</ref>。
また、例外として以下の場合は、起点駅側→終点駅側の表記順を用いる。
- 正式路線と千葉駅以東・以南の路線、横須賀線と総武快速線のみおよび一部区間で線路を共有する列車<ref group="例示">例外表記例<br>・運転系統の横須賀線は東京駅 - 久里浜駅間<br>・総武快速線は東京駅・津田沼駅及び千葉駅発着<br>・湘南新宿ラインは西大井駅 - 逗子駅間で横須賀線に乗り入れる<br>・外房線への直通列車は、千葉駅 - 上総一ノ宮駅間<br>・新宿発特急「サフィール踊り子」5号のみ、土休日に西大井駅 - 鶴見駅間に乗り入れる<br>・特急「あずさ」は錦糸町駅 - 千葉駅間で総武快速線を走行</ref><br>・両国駅発着の列車は、両国駅から先で快速線の線路に入るため、共有区間は両国駅 - 千葉駅間
なお、上記の列車で、○○発○○行きと記述する場合は、方向を示す「下り○○発○○行き」、「上り○○発○○行き」を用いる。
- 編集イメージ2
一般的に日本の鉄道では当該路線の起点駅から離れていく列車を「下り」、その逆を「上り」としている。横須賀線は正式な起点駅は大船駅である<ref name="鉄道要覧 横須賀線" /><ref name="日本鉄道旅行地図帳4号 横須賀線" />が、東京駅 - 大船駅間に属している東海道本線および総武本線の起点駅はそれぞれ東京駅である<ref name="鉄道要覧 東海道線" /><ref name="鉄道要覧 総武線" /><ref name="日本鉄道旅行地図帳4号 東海道本線" /><ref name="日本鉄道旅行地図帳3号 総武本線" />。よって、両線は東京駅で上下が変化するので、両線直通列車はこの定義は当てはまらない。この現象は京浜東北線(正式路線の東海道本線と東北本線の起点駅が東京駅)や中央・総武緩行線(正式路線の中央本線と総武本線の接続駅は御茶ノ水駅であるが、上下の転換駅は錦糸町駅<ref name="鉄道要覧 総武線" /><ref name="日本鉄道旅行地図帳3号 総武本線支線" />)と同様であるが、本系統は京浜東北線の「北行」「南行」や中央・総武緩行線の「東行」「西行」ような表現は使われていないため、本稿における路線の方向表記および区間表記は、以下のような表記を用いる。
- 横須賀線の場合:東京駅(大船駅)→久里浜駅方面が「下り」、久里浜駅(大船駅)→東京駅方面が「上り」
- 区間表記は、「下り」方向が東京駅→品川駅→武蔵小杉駅→鶴見駅→大船駅→久里浜駅の順、「上り」方向が久里浜駅→大船駅→鶴見駅→武蔵小杉駅→品川駅→東京駅
- 総武快速線の場合:東京駅→千葉駅方面が「下り」、千葉駅→東京駅方面が「上り」
- 区間表記は、「下り」方向が東京駅→錦糸町駅→津田沼駅→千葉駅の順、「上り」方向が千葉駅→津田沼駅→錦糸町駅→東京駅
方向表記は正式路線と千葉駅以東・以南の路線、横須賀線か総武快速線で完結および一部区間で線路を共有する列車に用い<ref group="例示">表記例1<br>・運転系統の横須賀線は東京駅 - 久里浜駅間<br>・総武快速線は東京駅・津田沼駅及び千葉駅発着<br>・湘南新宿ラインは西大井駅 - 逗子駅間で横須賀線に乗り入れる<br>・外房線への直通列車は、千葉駅 - 上総一ノ宮駅間<br>・新宿発特急「サフィール踊り子」5号のみ、土休日に西大井駅 - 鶴見駅間に乗り入れる<br>・特急「あずさ」は錦糸町駅 - 千葉駅間で総武快速線を走行<br>・両国駅発着の列車は、両国駅から先で快速線の線路に入るため、共有区間は両国駅 - 千葉駅間</ref>、両線直通列車は、東京駅で上下が変化するため、方向を表す表記は用いない(方向表記は冒頭文を基本)<ref group="例示">表記例2<br>・横須賀・総武快速線は久里浜駅 - 千葉駅の全区間で運行される<br>・「エアポート成田」は久里浜駅 - 成田空港駅間で運行された<br>・特急「成田エクスプレス」は、大船駅 - 千葉駅間で本系統の線路を走行</ref>。
なお、両線直通列車において○○発や○○行きが複数ある場合は<ref group="例示">表記例3<br>・横須賀・総武快速線は久里浜駅 - 千葉駅の全区間で運行される<br>・「エアポート成田」は久里浜駅 - 成田空港駅間で運行された<br>・成田発逗子行きの通勤快速は、東京駅で種別が「普通」となり、逗子駅まで各駅に停車<br>・大船発成田空港行きの特急「成田エクスプレス」は、大船駅 - 千葉駅間で本系統の線路を走行</ref>
- === 線路を共有する列車の接続点 ===
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提案1.の編集イメージ
貨物新線建設反対運動が起こった経緯の詳細を横須賀・総武快速線記事内の節「エピソード」に記述、簡潔説明を東海道貨物線記事内にする記述(その問題は、横須賀・総武快速線を主とし、東海道貨物線はそれに付随したものとする)イメージ。
- 横須賀・総武快速線記事内の編集イメージ
(節2.3 SM分離より)
一方地上の貨物線の建設は、まずは品鶴貨物線を転用するにあたり、武蔵野線と汐留駅(現・廃止) - 東京貨物ターミナル駅 - 塩浜操車場(現・川崎貨物駅) - 鶴見駅間に湾岸貨物線を建設、これらの貨物線1973年10月から1976年3月までに開業して、そこに貨物列車を転移させた。
(この後に東海道貨物線の現行の文章のうち「東戸塚 - 大船間は」から「輸送力の大幅な増強を図るものであった」までを変化させて転記)
↓
(加筆予定文章)次に在来貨物線の鶴見駅 - 大船駅間のうち、鶴見駅 - 東戸塚駅間は、横浜駅付近の市街化が進み線増が困難なため、北方に迂回する貨物新線を建設することにした。この新線は、武蔵野貨物線・新鶴見方面または川崎貨物駅経由東京貨物ターミナル駅方面からの線路と合流する鶴見駅から、根岸線方面への貨物線(高島線)と京急本線生麦駅付近で分岐、そこからトンネルに入り横浜線大口駅付近を高架で交差、長大トンネルでに入ると貨物専用の横浜羽沢駅へ至り、同駅から2本のトンネルを経て相鉄本線上星川駅付近で交差した先から、長大トンネルで保土ケ谷の丘陵地帯を抜け東戸塚駅で旅客線と合流する。東戸塚駅 - 大船駅間は旅客線に沿って新たに貨物用の複線を敷設、東海道線列車用・横須賀線電車用と併せて三複線とした。これら貨物新線の建設は、汐留駅 - 塩浜操車場(現・川崎貨物駅) - 鶴見駅 - 小田原駅間の新たな貨物ルートを構成するものであり、東海道本線と横須賀線を分離して、輸送力の大幅な増強を図るものであった。ところが、1966年(昭和41年)4月に東海道本線東京駅 - 小田原駅間線路増設工事を国鉄理事会で決定、同年5月に工事実施計画の認可が下り、貨物新線建設の計画を発表したが、特に恩恵を直接受けない鶴見駅 - 東戸塚駅間の沿線住民の激しい反対運動に遭遇し、建設が遅れてしまった(詳細は[[後述|エピソード]])。←このように記述してエピソードの節にリンクさせる
- == エピソード ==
本節では、両線が直通運転する時に呼ばれたSM分離の由来などについて記述する。
- === SM分離および相互直通運転が計画よりも遅れた経緯(仮) ===
{{See also|東海道貨物線#貨物新線建設による沿線住民の反対運動(仮)}}→ 「東海道貨物線#貨物新線建設による沿線住民の反対運動(仮)」も参照
(現行の東海道貨物線#歴史の記載文のうち、反対運動の詳細部分を転記)
↓
(記述例)国鉄は、1967年時点では、東京駅 - 津田沼駅間複々線化および総武線側の東京駅地下ホーム使用開始を1971年(昭和46年)4月に、東京駅 - 品川駅間の地下線増設および同駅地下ホーム全面使用開始を1972年10月の予定であった[1] 。しかし、地下トンネルの地質の問題から工事が難航、当初の予定を繰り下げ地下ホームの使用開始を総武快速線側は1972年7月に、東海道本線(横須賀線)側は1974年(昭和49年)4月から1975年(昭和50年)度までの予定にした[2][3]。総武快速線は予定通り、1972年7月15日に開業したが、横須賀線は1973年6月に東京駅 - 品川駅間の地下別線は完成していたものの、その先の鶴見駅 - 東戸塚駅間の貨物新線建設に対する用地買収などに難渋したため、東海道線列車との分離運転および相互直通運転が計画通り進まなかった。それは、以下のような経緯であった。
1966年(昭和41年)4月に東海道本線東京駅 - 小田原駅間線路増設工事を国鉄理事会で決定、同年5月に工事実施計画の認可が下りた。しかし、この貨物新線建設の計画が発表されると、恩恵を直接受けない横浜市神奈川区や保土ケ谷区などの住民によって貨物線建設反対運動が起こった。この反対運動は、国鉄側が地元の意見も聞かずに、一方的にルートを決めたことへの反発と沿線の丘陵地帯を長大トンネルで通したとしても、住宅も多く、騒音や振動の影響への警戒感から起こしたもので、住民側は、同年9月11日に「篠原菊名地区貨物線反対期成同盟」が、1967年(昭和42年)5月23日に保土ケ谷区上星川地区でも反対同盟が結成され反対運動が各地に波及、同年6月10日「横浜新貨物線反対同盟連合協議会」を結成して、各地の反対運動の連携を図ることになった。これら反対運動の影響で、国鉄は用地買収に着手できず、住民説明会や測量も行うことができなかった[注 4]。だが、住民側が国鉄との交渉を続けていくうちに、絶対反対から条件闘争へと転換する地区も現れて、1969年(昭和44年)6月に上星川地区が反対同盟連合から脱退、同年横浜市は貨物線建設は通勤輸送緩和のためやむを得ないとして、国鉄に十分な騒音・振動対策を求めた。その後、1970年(昭和45年)3月6日に横浜市議会が反対請願を不採用とする決議を採択、これにより住民側の反対運動の体勢は条件闘争へと向かうが、それでも納得のいかない鶴見区や神奈川区の一部住民が測量が始めた工事関係者との衝突、測量を中止に追い込むと、数年間にわたり双方のにらみ合いが続いた。国鉄は、依然として強硬に反対する一部住民と条件闘争派と分けて強く対応することにし、1970年2月17日に土地収用法による事業認定を申請、それに対し反対同盟連合は事業認定の前提となる縦覧の阻止闘争などを続けた。しかし、1972年(昭和47年)3月になると建設反対強硬派が集まる鶴見区や神奈川区の一部住民が反対同盟連合から脱退、条件派の貨物線公害対策協議会を結成、事実上反対同盟連合は分裂した。これにより、同年には国鉄と条件付き賛成派が建設に合意し、ほぼ全線で着工された。1976年(昭和51年)3月には一部を除き建設工事は終了していたが、横浜線との交差付近の500mの区間の住民は最後まで強硬に反対していた。これに対し、1974年(昭和49年)7月17日に建設大臣(当時)による土地収用法に基づく事業認定を公示、その地区に対し土地収用法を適用、1978年(昭和53年)6月3日には神奈川県収用委員会は収用の裁決を下し、その地区は強制収用されたのち、この区間を突貫工事で約半年で完成させ、1979年10月1日のダイヤ改正から新貨物線の使用を開始した。このような反対運動により新貨物線の開通が遅れたため、1973年6月に完成していた東京駅 - 品川駅間の地下トンネル区間については、東京駅の地下中央通路の混雑が問題となりその緊急緩和措置として、1976年10月1日に総武快速線延長という形で開業させるという影響が出たが、1980年10月1日の東海道本線と横須賀線の路線分離が完成し、両線の直通運転が開始された。
- 東海道貨物線記事内の編集イメージ
- == 歴史 ==
(開業後からの沿革の説明を記述する)
- === 戦後の線路増設(仮) ===
(ここに、鉄道ピクトリアル2000年2月号 【特集】 湘南電車50年 15- 23頁の記載事項を基にした、東海道貨物線の線路増設計画の概要を記述)
↓
(記述例)戦後の高度経済成長期に大都市への人口集中が著しく、特に、首都圏においては、一層顕著であった。そこで国鉄は…(この先に計画の概要を記述)…汐留駅(現・廃止) - 東京貨物ターミナル駅 - 塩浜操車場(現・川崎貨物駅) - 鶴見駅間に湾岸貨物線を建設、これらの貨物線1973年10月から1976年3月までに開業させた。
(東海道貨物線の現行の文章のうち「東戸塚 - 大船間は」から「輸送力の大幅な増強を図るものであった」までの文章を少し変化させて移動)
↓
(記述例)次に在来貨物線の鶴見駅 - 大船駅間のうち、鶴見駅 - 東戸塚駅間は、横浜駅付近の市街化が進み線増が困難なため、北方に迂回する貨物新線を建設することにした。この新線は、武蔵野貨物線・新鶴見方面または川崎貨物駅経由東京貨物ターミナル駅方面からの線路と合流する鶴見駅から、根岸線方面への貨物線(高島線)と京急本線生麦駅付近で分岐、そこからトンネルに入り横浜線大口駅付近、相鉄本線上星川駅付近を経て貨物専用の横浜羽沢駅へ至り、その先は、長大トンネルで保土ケ谷の丘陵地帯を抜け東戸塚駅で旅客線と合流する。東戸塚駅 - 大船駅間は旅客線に沿って新たに貨物用の複線を敷設、東海道線列車用・横須賀線電車用と併せて三複線とした。これら貨物新線の建設は、汐留駅 - 塩浜操車場(現・川崎貨物駅) - 鶴見駅 - 小田原駅間の新たな貨物ルートを構成するものであり、東海道本線と横須賀線を分離して、輸送力の大幅な増強を図るものであった。
- === 貨物新線建設による沿線住民の反対運動(仮) ===
{{Main|横須賀・総武快速線#エピソード}}→ 詳細は「横須賀・総武快速線#エピソード」を参照
(現行の東海道貨物線#歴史の記載文のうち、「篠原菊名地区貨物線反対期成同盟」などの反対同盟の固有名詞を記述、埼京線#当時の沿線住民の反対運動を参考に簡潔な説明を記述する)
↓
(記述例)1966年(昭和41年)4月に東海道本線東京駅 - 小田原駅間線路増設工事を国鉄理事会で決定、同年5月に工事実施計画の認可が下りた。しかし、この貨物新線建設の計画が発表されると、恩恵を直接受けない横浜市神奈川区や保土ケ谷区などの住民によって貨物線建設反対運動が起こった。住民側は、同年9月に「篠原菊名地区貨物線反対期成同盟」が、1967年(昭和42年)に保土ケ谷区上星川地区でも反対同盟が結成され反対運動が各地に波及、同年「横浜新貨物線反対同盟連合協議会」を結成した。反対運動の影響で、用地買収に着手できず、住民説明会や測量も行うことができなかった[注 4]。だが、住民側が国鉄との交渉を続けていくうちに、絶対反対から条件闘争へと転換する地区も現れて、1969年(昭和44年)に上星川地区が反対同盟連合から脱退した。横浜市は貨物線建設は通勤輸送緩和のためやむを得ないとして、国鉄に十分な騒音・振動対策を求めた。その後、1970年(昭和45年)に横浜市議会が反対請願を不採用とする決議を採択、これにより住民側の反対運動の体勢は条件闘争へと向かう。国鉄は、1970年(昭和45年)に土地収用法による事業認定を申請、それに対し反対同盟連合は、事業認定の前提となる縦覧の阻止闘争などを続けるも、1972年(昭和47年)になると建設反対強硬派の一部住民が反対同盟連合から脱退、条件派の貨物線公害対策協議会を結成、事実上反対同盟連合は分裂、これにより、同年には国鉄と条件派などが建設に合意し、ほぼ全線で着工された。1976年(昭和51年)には一部を除き建設工事は終了していたが、最後まで強硬に反対していた横浜線との交差付近の500mの区間の住民に対し、1974年(昭和49年)に建設大臣(当時)が土地収用法による事業認定適用を公示、1978年(昭和53年)には神奈川県収用委員会は収用の裁決を下し、その地区を強制収用して、この区間を突貫工事で完成させ、1979年(昭和54年)10月1日のダイヤ改正から新貨物線の使用を開始した。この新線は、トンネルが多く、横浜線などの交差部分などで地上に出ても、防音壁で覆われた構造となっている。そのため、この貨物線の沿線住民は、建設当初は反対運動を起こしたものの、開業後はその存在を認識していない住民も多くなった[4]。
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提案2.の編集イメージ
貨物新線建設反対運動が起こった経緯を横須賀・総武快速線記事内の節「歴史」の小節「SM分離」に新しい小節を立てて記述、実際に起こった反対運動の詳細や住民同盟設立などの説明を東海道貨物線記事内に記述(その問題は、横須賀・総武快速線と東海道貨物線の両者の問題として扱うが前者に経緯の部分を転記して、反対運動は簡潔に説明、後者は反対同盟の固有名詞や、実際に行った運動の様子などの説明と経緯の部分は、簡潔な説明にする)イメージ。
- 横須賀・総武快速線記事内の編集イメージ
- == 歴史 ==
本文の「通勤五方面作戦」および「総武快速線新設(複々線化)」までは同じ内容(多少の修正はあり)
- === SM分離 ===
SM分離に関する主な計画は以下のとおりである。
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工事が難航、圧縮・凍結・薬液注入工法等多くの新技術を導入して、トンネル建設を施工した。この工事は1973年(昭和48年)6月28日に完成している。(SM分離の計画から東京トンネル内の説明は、本文と同じ)
(この後に、横須賀・総武快速線の現行文章に加え、東海道貨物線の現行の文章のうち「東戸塚 - 大船間は」から「輸送力の大幅な増強を図るものであった」までの文章を多少簡潔にして転記)
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(記入例)一方地上の貨物線の建設は、まずは品鶴貨物線を転用するにあたり、武蔵野線と汐留駅(現・廃止) - 東京貨物ターミナル駅 - 塩浜操車場(現・川崎貨物駅) - 鶴見駅間に湾岸貨物線を建設、これらの貨物線1973年10月から1976年3月までに開業して、そこに貨物列車を転移させた。次に在来貨物線の鶴見駅 - 大船駅間のうち、鶴見駅 - 東戸塚駅間は、横浜駅付近の市街化が進み線増が困難であった。そこで、鶴見駅から北方に迂回する貨物新線を建設することにした。この新線は鶴見駅から、根岸線方面への貨物線(高島線)と京急本線生麦駅付近で分岐、そこからトンネルに入り横浜線大口駅付近、相鉄本線上星川駅付近を経て貨物専用の横浜羽沢駅へ至り、その先は、長大トンネルで保土ケ谷の丘陵地帯を抜け東戸塚駅で旅客線と合流する。東戸塚駅 - 大船駅間は旅客線に沿って新たに貨物用の複線を敷設、東海道線列車用・横須賀線電車用と併せて三複線とした。これら貨物新線の建設は、汐留駅 - 塩浜操車場(現・川崎貨物駅) - 鶴見駅 - 小田原駅間の新たな貨物ルートを構成するものであり、東海道本線と横須賀線を分離して、輸送力の大幅な増強を図るものであった。
- ==== 難航したSM分離および相互直通運転(仮) ====
{{See also|東海道貨物線#貨物新線建設による沿線住民の反対運動(仮)}}→ 「東海道貨物線#貨物新線建設による沿線住民の反対運動(仮)」も参照
(現行の東海道貨物線#歴史の記載文のうち、経緯の部分を転記して、反対運動は簡潔に説明する記述)
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(記述例)国鉄は、1967年(昭和42年)時点では、東京駅 - 津田沼駅間複々線化および総武線側の東京駅地下ホーム使用開始を1971年(昭和46年)4月に、東京駅 - 品川駅間の地下線増設および同駅地下ホーム全面使用開始を1972年(昭和47年)10月の予定であった[1]。しかし、地下トンネルの地質の問題から工事が難航、当初の予定を繰り下げ地下ホームの使用開始を総武快速線側は1972年(昭和47年)7月に、東海道本線(横須賀線)側は1974年(昭和49年)4月から1975年(昭和50年)度までの予定にした[2][3]。総武快速線は予定通り、1972年(昭和47年)7月15日に開業したが、横須賀線は1973年(昭和48年)6月に東京駅 - 品川駅間の地下別線は完成していたものの、その先の鶴見駅 - 東戸塚駅間の貨物新線建設に対する用地買収などに難渋したため、東海道線列車との分離運転および相互直通運転が計画通り進まなかった。
その経緯は、1966年(昭和41年)4月に東海道本線東京駅 - 小田原駅間線路増設工事を国鉄理事会で決定、同年5月に工事実施計画の認可が下りた。しかし、この貨物新線建設の計画が発表されると、恩恵を直接受けない横浜市神奈川区や保土ケ谷区などの住民によって貨物線建設反対運動が起こり、同年9月と1967年(昭和42年)5月に沿線住民が相次いで「貨物線反対同盟」を結成、6月には各地の反対同盟が連合した「反対同盟連合協議会」を結成して、反対運動を展開した。横浜市は貨物線建設は通勤輸送緩和のためやむを得ないとして、国鉄に十分な騒音・振動対策を求めた。1969年(昭和44年)6月になると、反対同盟の一部が絶対反対から条件闘争へと転換、反対同盟連合から脱退した地区も現れ始めた。1970年(昭和45年)3月に横浜市議会が反対請願を不採用とする決議を採択、これにより住民側の反対運動の体勢は条件闘争へと向かう。国鉄は、依然として強硬に反対する一部住民と条件闘争派と分けて強く対応することにし、1970年(昭和45年)2月17日に土地収用法による事業認定を申請、反対同盟連合は事業認定の前提となる縦覧の阻止闘争などを続けたが、1972年(昭和47年)3月になると建設反対強硬派の一部住民が反対同盟連合から脱退、条件派の協議会を結成、事実上反対同盟連合は分裂、これにより、同年には国鉄と条件派などが建設に合意し、ほぼ全線で着工された。1976年(昭和51年)3月には一部を除き建設工事は終了していたが、最後まで強硬に反対していた横浜線との交差付近の500mの区間の住民に対し、1974年(昭和49年)7月17日に建設大臣(当時)による土地収用法に基づく事業認定を公示、その地区に対し土地収用法を適用、1978年(昭和53年)6月3日には神奈川県収用委員会は収用の裁決を下し、その地区を強制収用して、この区間を突貫工事で完成させた。このような反対運動により新貨物線の開通が遅れたため、1973年(昭和48年)6月に完成していた東京駅 - 品川駅間の地下トンネル区間については、前述の混雑が問題となり、1976年(昭和51年)10月1日に総武快速線延長という形で開業させた。また、1977年(昭和52年)9月には、国鉄が地元から長年要望されていた保土ケ谷駅 - 戸塚駅間に新駅(東戸塚駅)の設置を決定した。こうした紆余曲折を経てようやく、1979年(昭和54年)10月1日に新貨物線は開業、東京駅 - 小田原駅間は左図のほか線路増による完全客貨分離が完成、そのうち東京駅 - 大船駅間は1980年(昭和55年)10月1日から、東海道本線(湘南電車)と横須賀線電車の別線化による、系統別の路線分離を開始した。
東海道貨物線記事内の編集イメージ
- == 歴史 ==
(開業後からの沿革の説明を記述する)
- === 戦後の線路増設(仮) ===
(ここに、鉄道ピクトリアル2000年2月号 【特集】 湘南電車50年 15- 23頁の記載事項を基にした、東海道貨物線の線路増設計画の概要を記述)
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(記入例)戦後の高度経済成長期に大都市への人口集中が著しく、特に、首都圏においては、一層顕著であった。そこで国鉄は…(この先に計画の概要を記述)…汐留駅(現・廃止) - 東京貨物ターミナル駅 - 塩浜操車場(現・川崎貨物駅) - 鶴見駅間に湾岸貨物線を建設、これらの貨物線1973年10月から1976年3月までに開業させた。
(東海道貨物線の現行の文章のうち「東戸塚 - 大船間は」から「輸送力の大幅な増強を図るものであった」までの文章を少し変化させて移動)
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(記入例)次に在来貨物線の鶴見駅 - 大船駅間のうち、鶴見駅 - 東戸塚駅間は、横浜駅付近の市街化が進み線増が困難なため、北方に迂回する貨物新線を建設することにした。この新線は、武蔵野貨物線・新鶴見方面または川崎貨物駅経由東京貨物ターミナル駅方面からの線路と合流する鶴見駅から、根岸線方面への貨物線(高島線)と京急本線生麦駅付近で分岐、そこからトンネルに入り横浜線大口駅付近、相鉄本線上星川駅付近を経て貨物専用の横浜羽沢駅へ至り、その先は、長大トンネルで保土ケ谷の丘陵地帯を抜け東戸塚駅で旅客線と合流する。東戸塚駅 - 大船駅間は旅客線に沿って新たに貨物用の複線を敷設、東海道線列車用・横須賀線電車用と併せて三複線とした。これら貨物新線の建設は、汐留駅 - 塩浜操車場(現・川崎貨物駅) - 鶴見駅 - 小田原駅間の新たな貨物ルートを構成するものであり、東海道本線と横須賀線を分離して、輸送力の大幅な増強を図るものであった。
- === 貨物新線建設による反対運動(仮) ===
{{See also|横須賀・総武快速線#難航したSM分離および相互直通運転(仮)}}→ 「横須賀・総武快速線#難航したSM分離および相互直通運転(仮)」も参照
(「篠原菊名地区貨物線反対期成同盟」などの反対同盟の固有名詞や、実際に行った運動の様子などの説明を記述する。注釈内の「国鉄が地元住民の意見も聞かずに一方的にルートを決めたことへの反発」も本文に記述(東横線妙蓮寺駅の看板については、注釈内のままに)する。また、反対同盟連合の結成年月日や、国鉄や横浜市が申請および議決した経緯などの部分は、簡潔な説明にする)
↓
(記述例)1966年(昭和41年)4月に東海道本線東京駅 - 小田原駅間線路増設工事を国鉄理事会で決定、同年5月に工事実施計画の認可が下りた。しかし、この貨物新線建設の計画が発表されると、恩恵を直接受けない横浜市神奈川区や保土ケ谷区などの住民によって貨物線建設反対運動が起こった。この反対運動は、国鉄側が地元の意見も聞かずに、一方的にルートを決めたことへの反発と沿線の丘陵地帯を長大トンネルで通したとしても、住宅も多く、騒音や振動の影響への警戒感から起こしたもので、住民側は、同年9月に「篠原菊名地区貨物線反対期成同盟」が、1967年(昭和42年)5月に保土ケ谷区上星川地区でも反対同盟が結成され反対運動が各地に波及、同年6月に反対同盟連合の「横浜新貨物線反対同盟連合協議会」を結成した。反対運動の影響で、用地買収に着手できず、住民説明会や測量も行うことができなかった[注 4]。だが、住民側が国鉄との交渉を続けていくうちに、絶対反対から条件闘争へと転換する地区も現れて、1969年(昭和44年)6月に上星川地区が反対同盟連合から脱退した。横浜市は貨物線建設は通勤輸送緩和のためやむを得ないとして、国鉄に十分な騒音・振動対策を求め、1970年(昭和45年)に横浜市議会は反対請願の不採用決議を採択、これにより住民側の体勢は条件闘争へと向かう。それでも納得のいかない一部住民が測量が始めた工事関係者と衝突、測量を中止に追い込むと、数年間にわたり双方のにらみ合いが続いた。また、反対同盟連合は、1970年(昭和45年)に国鉄が申請した土地収用法に基づく事業認定に対し、その前提となる縦覧の阻止闘争なども続けた。その後、1972年(昭和47年)になると建設反対強硬派の一部住民が反対同盟連合から脱退、条件派の貨物線公害対策協議会を結成、事実上反対同盟連合は分裂、これにより、同年には国鉄と条件派などが建設に合意し、ほぼ全線で着工された。1976年(昭和51年)には一部を除き建設工事は終了していたが、最後まで強硬に反対していた横浜線との交差付近の500mの区間の住民に対し、国鉄が申請した事業認定を、1974年(昭和49年)に建設大臣(当時)が適用すると公示、1978年(昭和53年)に神奈川県収用委員会は収用の裁決を下し、その地区は強制収用されたのち、この区間を突貫工事で完成させ、1979年(昭和54年)10月1日のダイヤ改正から新貨物線の使用を開始した。この新線は、トンネルが多く、横浜線などの交差部分などで地上に出ても、防音壁で覆われた構造となっている。そのため、この貨物線の沿線住民は、建設当初は反対運動を起こしたものの、開業後はその存在を認識していない住民も多くなった[4]。
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提案2.の編集イメージ改
貨物新線建設反対運動が起こった経緯を横須賀・総武快速線記事内の節「歴史」の小節「SM分離」に新しい小節を立てて記述、実際に起こった反対運動の住民同盟名などの説明を東海道貨物線記事内にする記述(その問題は、横須賀・総武快速線と東海道貨物線の両者の問題として扱い、両方にのその経緯と反対運動を説明するが、反対運動の詳細は東海道貨物線で説明する)イメージ。
- 横須賀・総武快速線記事内の編集イメージ
- == 歴史 ==
本文の「通勤五方面作戦」および「総武快速線新設(複々線化)」までは同じ内容(多少の修正はあり)
- === SM分離 ===
SM分離に関する主な計画は以下のとおりである。
・
・
工事が難航、圧縮・凍結・薬液注入工法等多くの新技術を導入して、トンネル建設を施工した。この工事は1973年(昭和48年)6月28日に完成している。(SM分離の計画から東京トンネル内の説明は、本文と同じ)
(この後に、横須賀・総武快速線の現行文章に加え、東海道貨物線の現行の文章のうち「東戸塚 - 大船間は」から「輸送力の大幅な増強を図るものであった」までの文章を変化させて転記)
↓
(記入例)一方地上の貨物線の建設は、まずは品鶴貨物線を転用するにあたり、武蔵野線と汐留駅(現・廃止) - 東京貨物ターミナル駅 - 塩浜操車場(現・川崎貨物駅) - 鶴見駅間に湾岸貨物線を建設、これらの貨物線1973年10月から1976年3月までに開業して、そこに貨物列車を転移させた。(この後ろに東海道貨物線の現行の文章のうち「東戸塚 - 大船間は」から「輸送力の大幅な増強を図るものであった」までを変化させて転記)次に在来貨物線の鶴見駅 - 大船駅間のうち、鶴見駅 - 東戸塚駅間は、横浜駅付近の市街化が進み線増が困難なため、北方に迂回する貨物新線を建設することにした。この新線は、武蔵野貨物線・新鶴見方面または川崎貨物駅経由東京貨物ターミナル駅方面からの線路と合流する鶴見駅から、根岸線方面への貨物線(高島線)と京急本線生麦駅付近で分岐、そこからトンネルに入り横浜線大口駅付近、相鉄本線上星川駅付近を経て貨物専用の横浜羽沢駅へ至り、その先は、長大トンネルで保土ケ谷の丘陵地帯を抜け東戸塚駅で旅客線と合流する。東戸塚駅 - 大船駅間は旅客線に沿って新たに貨物用の複線を敷設、東海道線列車用・横須賀線電車用と併せて三複線とした。これら貨物新線の建設は、汐留駅 - 塩浜操車場(現・川崎貨物駅) - 鶴見駅 - 小田原駅間の新たな貨物ルートを構成するものであり、東海道本線と横須賀線を分離して、輸送力の大幅な増強を図るものであった。
- ==== 難航したSM分離および相互直通運転(仮) ====
{{Main2|実際に起きた反対運動の詳細|東海道貨物線#貨物新線建設の反対運動(仮)}}→ 実際に起きた反対運動の詳細については「東海道貨物線#貨物新線建設の反対運動(仮)」を参照
(現行の東海道貨物線#歴史の記載文のうち、一部を転記して、反対運動も説明する記述)
↓
(記述例)国鉄は、1967年(昭和42年)時点では、東京駅 - 津田沼駅間複々線化および総武線側の東京駅地下ホーム使用開始を1971年(昭和46年)4月に、東京駅 - 品川駅間の地下線増設および同駅地下ホーム全面使用開始を1972年(昭和47年)10月の予定であった[1]。しかし、地下トンネルの地質の問題から工事が難航、当初の予定を繰り下げ地下ホームの使用開始を総武快速線側は1972年(昭和47年)7月に、東海道本線(横須賀線)側は1974年(昭和49年)4月から1975年(昭和50年)度までの予定にした[2][3]。総武快速線は予定通り、1972年(昭和47年)7月15日に開業したが、横須賀線は1973年(昭和48年)6月に東京駅 - 品川駅間の地下別線は完成していたものの、その先の鶴見駅 - 東戸塚駅間の貨物新線建設に対する用地買収などに難渋したため、東海道線列車との分離運転および相互直通運転が計画通り進まなかった。
その経緯は、1966年(昭和41年)4月に東海道本線東京駅 - 小田原駅間線路増設工事を国鉄理事会で決定、同年5月に工事実施計画の認可が同年5月に下りた。しかし、この貨物新線建設の計画が発表されると、恩恵を直接受けない横浜市神奈川区や保土ケ谷区などの住民によって貨物線建設反対運動が起こり、同年9月と1967年(昭和42年)5月に沿線住民が相次いで「貨物線反対同盟」を結成、6月には各地の反対同盟が連合した「反対同盟連合協議会」を結成して、反対運動を展開した。しかし、国鉄との交渉を続けていた1969年(昭和44年)6月に、絶対反対から条件闘争へと転換する地区が反対同盟連合から脱退、横浜市は貨物線建設は通勤輸送緩和のためやむを得ないとして、国鉄に十分な騒音・振動対策を求めた。その後、1970年(昭和45年)3月6日に横浜市議会が反対請願を不採用とする決議を採択、これにより住民側の反対運動の体勢は条件闘争へと向かうが、一部住民は納得がいかなかった。国鉄は、依然として強硬に反対する一部住民と条件闘争派と分けて強く対応することにし、1970年(昭和45年)2月17日に土地収用法による事業認定を申請、それに対し反対同盟連合は事業認定の前提となる縦覧の阻止闘争などを続けたが、1972年3月になると建設反対強硬派の一部住民が反対同盟連合から脱退、条件派の協議会を結成、事実上反対同盟連合は分裂した。これにより、同年には国鉄と条件派などが建設に合意し、ほぼ全線で着工された。1976年(昭和51年)3月には一部を除き建設工事は終了していたが、最後まで強硬に反対していた横浜線との交差付近の500mの区間の住民に対し、1974年(昭和49年)7月17日に建設大臣(当時)による土地収用法に基づく事業認定を公示、その地区に対し土地収用法を適用、1978年(昭和53年)6月3日には神奈川県収用委員会は収用の裁決を下し、その地区を強制収用して、この区間を突貫工事で完成させた。このような反対運動により新貨物線の開通が遅れたため、1973年(昭和48年)6月に完成していた東京駅 - 品川駅間の地下トンネル区間については、前述の混雑が問題となり、1976年(昭和51年)10月1日に総武快速線延長という形で開業させた。また、1977年(昭和52年)9月には、国鉄が地元から長年要望されていた保土ケ谷駅 - 戸塚駅間に新駅(東戸塚駅)の設置を決定した。こうした紆余曲折を経てようやく、1979年(昭和54年)10月1日に新貨物線は開業、東京駅 - 小田原駅間は左図のほか線路増による完全客貨分離が完成、そのうち東京駅 - 大船駅間は1980年(昭和55年)10月1日から、東海道本線(湘南電車)と横須賀線電車の別線化による、系統別の路線分離を開始した。
東海道貨物線記事内の編集イメージ
- == 歴史 ==
(開業後からの沿革の説明を記述する)
- === 戦後の線路増設(仮) ===
(ここに、鉄道ピクトリアル2000年2月号 【特集】 湘南電車50年 15- 23頁の記載事項を基にした、東海道貨物線の線路増設計画の概要を記述)
↓
(記入例)戦後の高度経済成長期に大都市への人口集中が著しく、特に、首都圏においては、一層顕著であった。そこで国鉄は…(この先に計画の概要を記述)…汐留駅(現・廃止) - 東京貨物ターミナル駅 - 塩浜操車場(現・川崎貨物駅) - 鶴見駅間に湾岸貨物線を建設、これらの貨物線1973年10月から1976年3月までに開業させた。
(東海道貨物線の現行の文章のうち「東戸塚 - 大船間は」から「輸送力の大幅な増強を図るものであった」までの文章を少し変化させて移動)
↓
(記入例)次に在来貨物線の鶴見駅 - 大船駅間のうち、鶴見駅 - 東戸塚駅間は、横浜駅付近の市街化が進み線増が困難なため、北方に迂回する貨物新線を建設することにした。この新線は鶴見駅で、武蔵野貨物線・新鶴見方面または川崎貨物駅経由東京貨物ターミナル駅方面からの線路と合流、根岸線方面への貨物線(高島線)と京急本線生麦駅付近で分岐、そこからトンネルに入り横浜線大口駅付近、相鉄本線上星川駅付近を経て貨物専用の横浜羽沢駅へ至り、その先は、長大トンネルで保土ケ谷の丘陵地帯を抜け東戸塚駅で旅客線と合流する。東戸塚駅 - 大船駅間は旅客線に沿って新たに貨物用の複線を敷設、東海道線列車用・横須賀線電車用と併せて三複線とした。これら貨物新線の建設は、汐留駅 - 塩浜操車場(現・川崎貨物駅) - 鶴見駅 - 小田原駅間の新たな貨物ルートを構成するものであり、東海道本線と横須賀線を分離して、輸送力の大幅な増強を図るものであった。
- === 貨物新線建設の反対運動(仮) ===
{{See also|横須賀・総武快速線#難航したSM分離および相互直通運転(仮)}}→ 「横須賀・総武快速線#難航したSM分離および相互直通運転(仮)」も参照
(現行の東海道貨物線#歴史の記載文のうち、反対運動の詳細部分を残した記述)
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(記述例)1966年(昭和41年)4月に東海道本線東京駅 - 小田原駅間線路増設工事を国鉄理事会で決定、同年5月に工事実施計画の認可が下りた。しかし、この貨物新線建設の計画が発表されると、恩恵を直接受けない横浜市神奈川区や保土ケ谷区などの住民によって貨物線建設反対運動が起こった。この反対運動は、国鉄側が地元の意見も聞かずに、一方的にルートを決めたことへの反発と沿線の丘陵地帯を長大トンネルで通したとしても、住宅も多く、騒音や振動の影響への警戒感から起こしたもので、住民側は、同年9月11日に「篠原菊名地区貨物線反対期成同盟」が、1967年(昭和42年)5月23日に保土ケ谷区上星川地区でも反対同盟が結成され反対運動が各地に波及、同年6月10日「横浜新貨物線反対同盟連合協議会」を結成して、各地の反対運動の連携を図ることになった。これら反対運動の影響で、国鉄は用地買収に着手できず、住民説明会や測量も行うことができなかった[注 4]。だが、住民側が国鉄との交渉を続けていくうちに、絶対反対から条件闘争へと転換する地区も現れて、1969年(昭和44年)6月に上星川地区が反対同盟連合から脱退、同年横浜市は貨物線建設は通勤輸送緩和のためやむを得ないとして、国鉄に十分な騒音・振動対策を求めた。その後、1970年(昭和45年)3月6日に横浜市議会が反対請願を不採用とする決議を採択、これにより住民側の反対運動の体勢は条件闘争へと向かうが、それでも納得のいかない鶴見区や神奈川区の一部住民が測量が始めた工事関係者との衝突、測量を中止に追い込むと、数年間にわたり双方のにらみ合いが続いた。国鉄は、依然として強硬に反対する一部住民と条件闘争派と分けて強く対応することにし、1970年2月17日に土地収用法による事業認定を申請、それに対し反対同盟連合は事業認定の前提となる縦覧の阻止闘争などを続けた。しかし、1972年(昭和47年)3月になると建設反対強硬派が集まる鶴見区や神奈川区の一部住民が反対同盟連合から脱退、条件派の貨物線公害対策協議会を結成、事実上反対同盟連合は分裂した。これにより、同年には国鉄と条件付き賛成派が建設に合意し、ほぼ全線で着工された。1976年(昭和51年)3月には一部を除き建設工事は終了していたが、横浜線との交差付近の500mの区間の住民は最後まで強硬に反対していた。これに対し、1974年(昭和49年)7月17日に建設大臣(当時)による土地収用法に基づく事業認定を公示、その地区に対し土地収用法を適用、1978年(昭和53年)6月3日には神奈川県収用委員会は収用の裁決を下し、その地区は強制収用されたのち、この区間を突貫工事で約半年で完成させ、1979年10月1日のダイヤ改正から新貨物線の使用を開始した。この新線は、トンネルが多く、横浜線などの交差部分などで地上に出ても、防音壁で覆われた構造となっている。そのため、この貨物線の沿線住民は、建設当初は反対運動を起こしたものの、開業後はその存在を認識していない住民も多くなった[4]。
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横須賀線編集イメージ
- === 列車の編成 ===
編成の変遷
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東海道線用111・113系
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← 熱海 東京 →
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基本編成
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付属編成
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1 |
2 |
3
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4
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5
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6
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7
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8
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9
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10
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11
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12
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13
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14
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15
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横須賀線用111・113系
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1965年15両編成運転開始時 ← 久里浜 東京 →
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基本編成
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付属編成
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1
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2
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3
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4
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5
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6
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7
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8
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9
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10
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11
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12
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13
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14
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15
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- 数字は号車番号を表す。
- 4・12号車はグリーン車。
- 基本は、基本編成7両+ 付属編成5両の12両編成
- 12両編成時は、基本編成の7~9号車が外れる。
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1965年12月1日以降
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(東京駅基準) ← 久里浜 千葉 →
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付属編成
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基本編成
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増1 |
増2 |
増3 |
増4 |
1 |
2 |
3
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4
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5
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6
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7
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8
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9
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10
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11
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211系以降(東海道・湘南新宿ラインなど)
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← 沼津・小田原・逗子 前橋・黒磯 →
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基本編成
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付属編成
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1 |
2 |
3
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4
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5
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6
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7
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8
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9
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10
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11
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12
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13
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14
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15
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- 数字は号車番号を表す。
- 4・5号車はグリーン車
- 8号車は弱冷房車
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E217系(横須賀・総武快速線用)
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(東京駅基準) ← 久里浜 千葉 →
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付属編成
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基本編成
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増1 |
増2 |
増3 |
増4 |
1 |
2 |
3
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4
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5
|
6
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7
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8
|
9
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10
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11
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横須賀線用電車は、かつては東海道線東京口の中距離電車と同様の編成構成で熱海・久里浜寄方に基本編成、東京寄方に付属編成が連結される構成あった。これは、両線に111・113系電車が導入され、最大15両編成で運用された以降も同様となった。なお、その際の編成構成は、東海道線用が基本編成11両+ 付属編成4両で(右図を参照)で、横須賀線用電車が基本編成10両+ 付属編成5両で(右図を参照)であった。また、グリーン車は横須賀線用が基本編成と付属編成に1両ずつ、東海道線用は基本編成2両に連結されている。しかし横須賀線用は、1968年12月1日の逗子駅改良工事完成に伴い、久里浜寄方に付属編成、東京・千葉寄方に基本編成(右図を参照)が連結するという編成構成(現在のE217系及び新規導入予定のE235系電車も同様)になった。なお、グリーン車は基本編成に連結されるようになった(詳細は後述)。
のちに東海道線に211系電車[注 5]及びE231系・E233系電車[注 6]が導入されるが、編成構成は基本編成10両+ 付属編成5両となったが、連結位置は111・113系と同様であった(右図を参照)。
横須賀線内のホームの長さは、逗子駅以北は15両分、以南では11両分(田浦駅除く)であるため、15両編成の列車は逗子駅での増解結が必要となっている。1963年12月の113系投入開始時点では7両の基本編成の東京・千葉寄方に5両の付属編成を連結した最大12両編成で、1965年12月1日からの暫定15両運転の際も基本編成が3両増結した10両編成、付属編成が5両編成であった[5]。しかし、東海道線用電車が所属していた大船電車区から国府津電車区(現・国府津車両センター)へ移管、横須賀線用電車を大船電車区が担当することとなって、横須賀線内の夜間留置については基本編成を久里浜駅、付属編成を逗子駅に収容することになり、逗子駅の留置線施設の最大収容編成数の算出が行われ、その結果、付属編成が5両の場合は13編成、4両の場合は18編成の収容が可能[注 7]とされ、付属編成を4両とすることとなった[5]。
一方、当時逗子駅で上り電車に付属編成を増結する際には、先行列車が発車して後続列車が到着するまでの間に、付属編成を駅の久里浜寄りの留置線から東京・千葉寄りの引上線まで回送していた。しかし、増発余力の検討を行った結果、付属編成を東京・千葉方に連結した場合は、先発列車から後続列車の到着までに6分、その間に増結編成を引上線まで回送して増結するまでの3分を加えると9分間間隔で、1時間6本の運行となるため、ラッシュ時の増発に際して輸送上のネックとなるとされた。他方、付属編成を久里浜方へ連結した場合は約5分間隔の1時間約12本の運行が見込める[5]とされた。また、地上設備の改良で対応する案も検討されたが、久里浜方へ連結する案との比較において、多額の費用と相当の期間を要するとされ採用されなかった。これらの検討の結果、増結位置を久里浜方への増結に改めらることとして逗子駅の改良工事が実施され、1968年12月1日に完成している[6][7]。
E217系を導入する時、東海道本線と同じように付属編成を東京・千葉方へ連結すると、前述の通り、上り電車の付属編成増結が困難になり、しかも留置線1線あたりの容量が最大12両分(7本中2本が4両×3本収容できる)であるため、付属編成を5両とすると収容できる本数が減少してしまい、さらに、すぐ先に京急逗子線の線路があり延長もできない。このような理由で、やむなく以前使われていた113系電車と同じ、4両+11両の編成となった。なお、前後をトンネルに挟まれた田浦駅では10両分に満たないホーム長しか確保できないため、11両編成の場合はドアカットで対処している。
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列車記事用編集イメージ
東武鉄道関連編集イメージ
- 閉鎖・廃止基地
- ★西新井工場(南栗橋工場に統合・移転)
- ★杉戸工場・杉戸検車区・杉戸機関区(東部動物公園駅隣接、工場は南栗橋工場に統合・移転、検車区および機関区は旧・館林検車区に統合)
- ★川越工場(旧・川越電車区、南栗橋工場に統合・移転)
- ★西新井電車区
- ★館林機関区(館林駅北、旧・館林検車区、廃止)
- ★坂戸機関区(坂戸駅構内、廃止)
- 注釈
- ^ 同列車の接続駅は大船駅であるが、東海道本線のホームに停車する。また、同列車の種別は「特別快速」と「快速」である。
- ^ 東京駅 - 大船駅間は東海道本線(東京駅起点)に属しており、横須賀線の起点駅は正式には大船駅である。
- ^ 横須賀線の起点駅は正式には大船駅である。
- ^ a b c d この反対運動で、東急東横線妙蓮寺駅付近では「新貨物線絶対反対、通勤緩和は新幹線を複々線に」と書かれた大きな看板があった。
- ^ 東海道線用と湘南新宿ライン・宇都宮線・高崎線用とがあった。前者と後者では編成構成が異なっていた。かつては、後者が前者及び横須賀線に湘南新宿ラインの列車として乗り入れていた。ただし、宇都宮線・高崎線用は後術のグリーン車導入連結
- ^ E231系・E233系電車は、上野東京ライン開業時に湘南新宿ライン・宇都宮線・高崎線と共通運用となった。
- ^ 留置線16編成、駅構内2編成。また、隣の鎌倉駅の収容等を考慮すると、最大20編成までの収容が可能となる。
- 出典