内灘闘争内灘闘争(うちなだとうそう)とは、第二次世界大戦後まもなくの昭和中期に、石川県河北郡内灘村(現在の内灘町)で起きたアメリカ軍の試射場に対する反対運動である。 経過1952年(昭和27年)、朝鮮戦争で使用するアメリカ軍の砲弾の需要が大きくなり、日本国内のメーカーから納入される砲弾の性能を検査するための試射場が必要となった。試射場には長い海岸線をもつ場所が適しており静岡県の御前崎周辺と、内灘砂丘が候補となり[要出典]、最終的に同年11月25日に内灘に閣議決定された[1]。これに対して村議会は反対決議を行い、北陸鉄道労組は浅野川線で行われる資材搬入に対してストライキを行うなどの支援を実施した。[要出典]この運動に際して、元陸軍大佐で当時衆議院議員であった辻政信が闘争を支援していたという写真が現存している[2]。 政府は石川県選出の参議院議員林屋亀次郎を接収担当の国務大臣として村の当局者との間で説得に当たらせ、補償金1億円、使用期間四か月(1月-4月)とする妥協案がまとめられたが、地元民の反対は収まらず、1953年(昭和28年)の第3回参議院選挙で林家が落選[3]。接収反対を掲げた井村徳二が林屋を破って当選した。当時井村は金沢市片町で大和百貨店を経営しており一方林屋も同市武蔵ヶ辻で同業の丸越百貨店を経営していたことから『武蔵大和の日本海決戦』という言葉で白熱した選挙戦となった。[要出典] 闘争は1957年1月31日に試射場が返還され[4](正式返還は同年3月30日[1])、アメリカ軍が撤収したことで終息したが、「鉄板道路」や、後述の着弾地観測場遺跡などに試射場時代の面影が残る。 年表着弾地観測場遺跡現在の河北斎場付近、内灘町西荒屋の丘の上にある遺跡。1957年まで使用されていた。これは当時試射場から発射された砲弾の命中率や爆発、不発を確認するために造られた石造りの建物で、見晴らしのよい丘の上に立てられた。別名O・P(オブザベーション・ポスト。英語で「観測所」の意味。)と呼ばれていた。試射場時代の面影を残す数少ない遺跡である。しかし今は外壁が一部崩れていたり、入り口にあったはずの鉄扉が朽ち果てて無くなっていたり、草木に包まれていたりとかなり寂れている。ただし内部の損傷はあまりなく、のぞき窓も健在、当時の面影を残している。[要出典] 関連作品
脚注
外部リンク
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