具志川城 (久米島町)
具志川城(ぐしかわじょう)は、沖縄県久米島にかつて存在した城(グスク)。現在は具志川城跡(ぐしかわじょうせき)となっている。所在地は久米島町仲村渠432および477-1[1][4]。久米島北西の仲村渠集落の北方、東シナ海へ飛び出した丘の上にあり、三方が崖となっている[1]。1975年(昭和50年)に国の史跡に指定された[1][4]。1999年(平成11年)度から2007年(平成19年)度にかけて、史跡具志川城保存修理事業に伴い、遺構確認の発掘調査が行われた[5][6][7]。 歴史築城年代は不明だが、14〜15世紀頃の陶磁器が出土していることから、15世紀初めには城の原型ができあがっていたと考えられる[2]。『琉球国由来記』(1713年上覧)および『久米島具志川間切旧記』(1743年編纂)には、もともと周辺集落の御嶽だった場所に、真達勃(まだふつ)按司によって築城されたと記されている[1][8][9]。その後真達勃按司の子・真金声(まかねごえ)按司の代に、同じ久米島内の伊敷索(いしきなは、ちなは)按司の次男・真二古樽(まにくだる)按司に攻め滅ぼされ、真二古樽按司が城主となった[2][10]。真金声按司は沖縄本島南部へ敗走し、そこに城を築いて同じく「具志川城」と名付けたと伝えられる(具志川城 (糸満市))[1][3]。久米島の具志川城はその後、16世紀初頭に尚真王が派遣した軍によって滅ぼされたとされている[1]。 構造城の周囲は東西および北方が断崖で、北・西方向は東シナ海に突出し、南方向は島内へつながっている[1]。城の内部は1m以下の石積みにより、Ⅰ〜Ⅳの4つの曲輪に区分されている[1]。北端部のⅠの曲輪は城内で最も高く、望楼の役目を果たしていたと考えられる[1]。西南に続くⅡの曲輪には南に面した基壇が造られており、砂岩の礎石も確認されていることから、主殿の建物とその前庭があったと見られる[1]。さらに西南のⅢの曲輪は内陸と門でつながり、Ⅲの西北にあるⅣの曲輪には建物の礎石跡が確認されている[3]。 参考文献
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