允恭地震

允恭地震(いんぎょうじしん)は、『日本書紀』に記された記録の残る日本最古の歴史地震

地震の記録

『日本書紀』允恭天皇5年7月14日ユリウス暦416年8月22日、グレゴリオ暦8月23日)の条項に「地震(なゐふる)」の記述が登場する。

允恭天皇は先に玉田宿禰反正天皇を命じていたが、地震があった日の夜に尾張連吾襲に殯宮の様子を探らせたところ玉田宿禰だけがいなかった。玉田宿禰はこの時酒宴を開いており、尾張連吾襲を殺して武内宿禰の墓地に隠れた。允恭天皇が玉田宿禰を呼び出したところ衣の下にを付けて参上したため捕えて殺したという[1]。このようにこの地震の記事は政治的事件の発端として記されており、地震そのものの状況や被害の様子は記されていない。また武烈天皇8年(西暦506年)以前は日本暦が明らかでないため厳密に西暦には換算できず、西暦換算が416年であるかも疑わしいとの見方もある[2]

  • 『日本書紀』巻第十三

允恭天皇五年秋七月丙子己丑

地震。先是命葛城襲津彦之孫玉田宿禰。主瑞歯別天皇之殯。則当地震夕。遣尾張連吾襲。察殯宮之消息。時諸人悉聚無闕。唯玉田宿禰無之也。吾襲奏言。殯宮大夫玉田宿禰、非見殯所。則亦遣吾襲於葛城。令視玉田宿禰。是日。玉田宿禰方集男女而酒宴焉。吾襲挙状、具告玉田宿禰。宿禰則畏有事。以馬一匹授吾襲為礼幣。乃密遮吾襲、而殺于道路。因以逃隠武内宿禰之墓域。天皇聞之喚玉田宿禰。玉田宿禰疑之。甲服襖中而参赴。甲端自衣中出之。天皇分明欲知其状。乃令小墾田釆女、賜酒于玉田宿禰。爰釆女分明瞻衣中有鎧。而具奏于天皇。天皇設兵将殺。玉田宿禰。乃密逃出而匿家。天皇更発卒囲玉田家。而捕之乃誅。

熊野年代記』にも諸国で大地震であったと記され[3]、『豊浜町誌』にも讃岐国で地震があったことが記されているが、これらは『日本書紀』よりも遥か後世に記されたものであり出典や詳細は不明である。

  • 『熊野年代記』

丙辰

七ノ十四諸国大地震是始。

  • 『豊浜町誌』

讃岐の国に地震(七・一四)。

地震像

『大日本地震史料』は「河内国地震フ」としているが[4]、これは地震記録が記された当時の都が河内国にあっただけのことであり、その震源が河内国であるか他国にあったかを知る由は無い[5]。允恭天皇の皇居は遠飛鳥宮であるがこれは現・明日香村とも考えられている。

大森房吉は『本邦大地震概表』の冒頭に本地震を大地震の部に入れているが[6]今村明恒はこの地震の記録は次の推古地震まで約200年間に大地震の記述が一回も現れないとはいうものの、揺れの強度や家屋の倒壊に言及しておらず、殯殿に異状なきか否かが問題となる程度の地震と解釈され、大地震と分類することに異議を唱えている[5]

なゐふる

国立国語研究所1903年以前に生まれた人を対象にした言語調査では、「地震」を「ない」「なえ」などと発音する例が岩手、九州・沖縄に分布していることが確認された(方言周圏論[7]

出典

  1. ^ 寒川旭『地震の日本史』中央公論新社中公新書〉、2007年11月、[要ページ番号]頁。ASIN 4121019229ISBN 978-4-12-101922-6NCID BA83846905OCLC 1073158374全国書誌番号:21355507 
  2. ^ 閲覧検索画面 [古代・中世]地震・噴火史料データベース(β版)
  3. ^ 宇佐美龍夫 著、東京大学地震研究所 編『日本の歴史地震史料 拾遺 二』1993年、[要ページ番号]頁。 NAID 10011062704 
  4. ^ 震災予防調査会 編『大日本地震史料』丸善、1904年、[要ページ番号]頁。 NCID BA30156013全国書誌番号:59001580 [要文献特定詳細情報]
  5. ^ a b 今村明恒「本邦正史に現はれる最初の大地震」『地震 第1輯』第16巻第5号、1944年、103-104頁、doi:10.14834/zisin1929.16.103ISSN 2186-599XNAID 130003845384OCLC 1058419943 
  6. ^ 大森房吉「本邦大地震概表」『震災豫防調査會報告』第88巻第2号、1919年3月30日、1-61頁、hdl:2261/17374NAID 110006606205 
  7. ^ 『日本言語地図』地図画像 | 国立国語研究所”. mmsrv.ninjal.ac.jp. 2024年7月18日閲覧。