倉島今朝徳
倉島 今朝徳(くらしま けさのり、1940年6月24日 - 2013年7月3日)は、長野県出身のプロ野球選手(捕手・内野手)。 来歴・人物長中3年生の時に野球を始め、上田松尾高では1年生の時、神津進投手とバッテリーを組み、1957年夏の甲子園に捕手、六番打者として出場[1]。前年度優勝校の平安高を降し準々決勝に進出するが、この大会に優勝した広島商の山中英明(法大)に完封負けを喫した[2]。同年秋の静岡国体は1回戦で 早実高を降すが、準々決勝で法政二高の延藤謙吉(三重交通)らに抑えられ完封負け。翌1958年春季北信越大会に進むが、準決勝で小松実に敗退。1959年夏は県予選準々決勝で小諸商に敗れる。 卒業後は明治大学へ進学[1]。東京六大学野球リーグでは1961年春季リーグで優勝。同年の全日本大学野球選手権大会に出場するが、準決勝で日大に敗れる。1年上に辻佳紀捕手がおり、その兼ね合いから一塁手としても起用された。しかし1962年秋季リーグに辻が欠場したため、その後はレギュラー捕手となる。1963年には主将・四番打者をつとめるが、秋季リーグ明立2回戦で走者帰塁の際の接触プレーを巡り双方の選手が乱闘、その責任を負い出場停止処分を受ける。リーグ通算54試合出場、182打数52安打、打率.286、1本塁打、18打点。大学同期に投手の石岡康三、外野手の三浦和美がいる。 石岡と共に1964年に国鉄スワローズに入団[3]。同年はイースタン・リーグのベストナイン(一塁手)に選出され、ジュニアオールスターにも出場した。一軍では主に代打としての出場が多かったが、一塁手、捕手としても起用された。1967年10月、阪神タイガース戦で初の先発マスクを被る。1969年6月には豊田泰光の急な欠場で、1試合ではあるが四番打者、一塁手として先発出場している。1969年限りで引退[1]。ヤクルト本社役員を経てヤクルト球団のフロント入りし、球団専務、連盟担当(球団代表)、セ・リーグ理事長を歴任した。2011年に退団。2013年7月3日、心不全で死去[4]。73歳没。 詳細情報年度別打撃成績
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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