保川春貞 (2代目)二代目 保川春貞(にだいめ やすかわ はるさだ、天保元年〈1830年〉 - 明治20年〈1887年〉11月18日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての京都の浮世絵師。 来歴初代保川春貞及び歌川国芳の門人。京都の人。姓は岡本、本姓は源。名は重美、俗称は正太郎。号は春輝、養徳斎、積善堂、はるの舎。作画期は嘉永元年から明治の頃。はじめ信貞と号していたが[1]、嘉永2年(1849年)に師の初代保川春貞が没してからは、師の遺命で二代目保川春貞を襲名する[2]。その後、国芳に入門、一時歌川姓を称したというが、これを直接裏付ける資料はない。ただ、画風に歌川風が見られることや、息子・保三郎も歌川派を自称していることから何らかの関係があったと考えられる[3]。版画作品は知られていおらず、版本は滑稽本『翫雀死出の旅立』を嘉永6年(1853年)頃の刊行とし、二代目春貞による挿絵だとする資料がある[4]。 明治元年(1868年)から本姓に復し、「岡本春暉」と改号する[2]。「春」は春貞から引き続き用いた思われるが、「暉」の由来は不明である。同時代の京絵師横山清暉との関係が疑われるが、両者を結び資料はない[5]。明治8年(1875年)京都博覧会で妙技牌を受けたようだが、そのような絵か不明。高橋由一に洋画を学んだといい[2]、明治12年(1879年)11月23日に東山双林寺で開かれた洋画展に名が見えるが[6]、油彩画は発見されていない。享年58。墓所は東山大谷とされるが[7]、現在その墓はない[8]。なお息子の保三郎も岡本春貞の名で活動し、明治17年(1884年)の第2回内国絵画共進会で銅賞を受けている。 作品は歌川派と三畠上龍風を折衷した美人画が残っており、辞典類では風俗画を得意とする絵師として記載されている[9][7]。一方、京都府立総合資料館が所蔵する『岡本春暉旧蔵資料』では、晩年肖像画に熱中し(後述)、模写・スケッチ(デッサン)類が散見される。この他にも、かつては有名な井戸だった滋野井の由来を調べた「滋野井之履歴書」、琵琶湖周囲の名所を解説した「琵琶の湖水廻る名所図蹟」、日本の飢饉の歴史を調べそれに備えるための方策を記す「油断大敵顔(おも)ふべ誌」、コレラの養生法が述べられた「虎列刺(これら)病予防之心得」など多方面の活動が窺える。ただ、生前からあまり高い評価をされたとはいえなかったらしく、晩年の『随筆老のかたみ』(随筆とあるが実際は自作和歌集)のなかには、「拙き絵を様々にかきためをきて/我が老の つたなきわさも 後の世に また顕はるる 時やあらなむ」と後世自分の絵が評価されたらいいなあ、という期待を込めた歌を詠んでいる。 代表作
脚注参考文献
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