佐竹義敦
佐竹 義敦(さたけ よしあつ)は、出羽国久保田藩の第8代藩主。第7代藩主・佐竹義明の長男。母は第5代藩主・佐竹義峯の娘。初名は義直(よしなお)。幼名は秀丸。通称は次郎。官位は従四位下侍従、右京大夫。号は曙山(しょざん)[1]。秋田蘭画の画人としても名高く[1]、「秋田蘭画の始祖」と称される[2]。 生涯文人大名7代藩主・佐竹義明の長男として誕生。母は5代藩主・佐竹義峯の娘・直。幼名は秀丸。初名は義直(よしなお)。 宝暦8年(1758年)5月11日、父・義明の死去により、家督を相続した。宝暦13年(1763年)2月15日、将軍徳川家治に御目見する。同年12月9日、従四位下侍従、右京大夫に叙任される。明和2年(1765年)4月15日、初めてお国入りの許可を得る。 当時、絵描きとしては最大の正統派と呼ばれた狩野派から絵を学んだ。狩野派の面々も、最初は大名のちょっとした趣味だろうとしか思っていなかったが、義敦の熱意は本気であった。そして藩士の小田野直武からも教えを受けて、日本画に西洋画を組み合わせた一代的な画法を作り出した。直武は、西洋画に対する趣味を持っており、平賀源内からもその作品を見て「秋田の片田舎に素晴らしい名手がいるものだ」と賞賛された。 西洋画論の執筆義敦の命令により、源内の下で絵の修行に励んだ直武は、源内の友人であった杉田玄白の『解体新書』における付図の作画を行なった。そして秋田に帰国後、義敦と直武は「画法綱領」、「画図理解」などの西洋画論を著わした。これは、日本最初の西洋画論をまとめた著作であった。 義敦は、「松に唐鳥図」(重要文化財)、「燕子花にハサミ図」、「竹に文鳥図」、「湖山風景図」などの絵画のほか、膨大な数のスケッチを描き、それを『写生帖』にまとめている。 義敦と直武が創始した洋風画は、秋田派とも秋田蘭画とも呼ばれている。その作風は銅版画の影響が強く、近陰影がハッキリした画風が特徴とされている。 義敦は天明5年(1785年)、38歳で死去した。跡を長男の義和が継いだ。 正室は山内豊敷の娘・賀。子は長男・義和、娘・敦(島津斉宣正室)ら4男6女。 系譜
偏諱を与えた人物義敦時代 脚注
関連文献
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