佐川満男
佐川 満男(さがわ みつお、1939年〈昭和14年〉11月9日 - 2024年〈令和6年〉4月12日)は、日本の歌手・俳優・タレント。兵庫県神戸市垂水区塩屋町出身。身長は168cm。血液型はO型。 ライターズ・カンパニー 、ミュージックオフィス合田、ハイブリッジ所属。 来歴・人物貿易商を営む家の4人きょうだいの末っ子として、兵庫県明石郡垂水町(現:神戸市垂水区)塩屋で出生[1]。父は佐川商店代表の佐川与一で、義兄(姉の夫)は栗田工業社長の佐川明で、甥(姉の子)に佐川一政がいる[2][3]。ちなみに、実家の界隈は外国人の別荘地で、実家の洋館は建築から80年以上経ってなお現存する[1]。 神戸市立塩屋小学校・神戸市立鷹取中学校を経て、神戸市立須磨高等学校を1年で中退した後に、英語によるカントリー・ミュージックの歌詞やギターによる演奏法を独学で身に付けた[1]。やがて、神戸市の須磨界隈で活動していたロカビリーバンドにボーカルで参加すると、「白馬車」(神戸・新開地のジャズ喫茶)と「銀馬車」(当時有名だった大阪・難波のジャズ喫茶)のオーディションに合格。「銀馬車」でのオーディション合格翌日から、「クレイジー・バブルス」というバンドで内田裕也とツインボーカルを務めたところ、バンドは大きな人気を博した。昼は神戸・夜は難波で歌う多忙な日々が続いたことから、ボーカルを1名追加させる目的でオーディションを実施したところ、歌手志望の中村泰士が参加。この時は佐川曰く「人相が悪くて歌が下手」との理由で「クレイジー・バブルス」のメンバーになれなかったものの、後に作詞家・作曲家として佐川の人生に多大な影響を及ぼす[4]。 「銀馬車」での東西ロカビリー大会で知り合った「ザ・スイング・ウエスト」の堀威夫から誘いを受けたことを機に上京する[4]と、1960年に「二人の並木径」でビクターレコードから歌手デビュー。デビュー当初は、「佐川ミツオ」という名義を使用していた[5]。「二人の並木径」を作曲したのはニール・セダカで、1960年に来日公演を開いた際には、「ザ・スイング・ウエスト」がバックバンドを務めていた。 デビューからしばらくは低調だったが、同年10月に発売された「無情の夢」が18万枚(1961年10月時点)の大ヒットになり、その後もリバイバルブームを追い風に「ゴンドラの唄」「背広姿の渡り鳥」などのヒット曲を連発[6]。NHK紅白歌合戦には、デビュー2年目の1961年から2年連続で出場した。しかし、ネフローゼ症候群や結核でおよそ3ヶ月間の入院生活を余儀なくされたことや、有頂天になった反動で悪評が立ったことから人気が急降下[5]。その最中に、自身のステージで前座を務めていた中村が、佐川の自宅でギターを弾きながら10分足らずで「今は幸せかい」という曲を作ってしまう[7]。 佐川は「今は幸せかい」を音楽出版社に自ら持ち込んだものの、行く先々で門前払いに遭ったため、自費で500枚のレコードを製作。中村と2人で大阪の盛り場を回ったところ、有線放送のリクエスト件数で1位を記録したあげく、日本国内の全レコード会社からリリースを正式に打診された。結局、1968年に本名の「佐川満男」名義で、「リリースの条件が特に良かった」という日本コロムビアから「今は幸せかい」をリリース。およそ60万枚の大ヒットに至ったばかりか、翌1969年には、この曲をひっさげて『NHK紅白歌合戦』へ7年振りに返り咲いた[8]。 1970年に『NHK紅白歌合戦』へ通算4回目(自身2度目の2年連続)出場を果たすと、1971年に同業者(歌手)の伊東ゆかりと結婚。「伊東の歌が元々好きだった」とのことで、結婚後に一人娘の宙美を授かったが、1975年の5月に離婚している。佐川が離婚後に語った話では、子どもの頃から歌っている伊東の才能や歌のうまさに嫉妬する[8]あまり、伊東とたびたび口論していたという。津川雅彦長女誘拐事件(1974年)の犯人が警察に逮捕された後で、「最初は宙美を誘拐しようとして、仕事先から帰宅中の佐川が運転する乗用車を尾行していたが、佐川に途中で振り切られてしまった」と供述したことも、伊東との口論につながったとされる。結局、「人生をリセットしないといけない」と考えたあげく、離婚を機に「ルーマーズハウス・アスク」というクラブを大阪の北新地で開業。離婚の1ヶ月後(1975年6月)に開いた記者会見で「歌手を廃業する」と宣言したことによって、芸能界をいったん離れた[9]。 「ルーマーズハウス・アスク」は150もの客席を擁するクラブで、永田カツ子を専属歌手に採用したほか、NHKや民放のドラマ関係者が「打ち上げ」の会場として使用していた[10]。永田が結婚を機に専属歌手を退いてからは、シルヴィアがその座を引き継いでいたが、店内で歌っていたところを東京の芸能関係者からスカウト。このスカウトがきっかけで、ロス・インディオスに初代の女性ボーカリストとして加入した(加入中のグループ名は「ロス・インディオス&シルヴィア」)。 その一方で、中村は1977年に開いたリサイタルで、「かんにんしてや」という自作の楽曲を伊東とのデュエットで披露[11]。この曲に惚れ込んだ佐川は、離婚から1年半しか経っていない伊東へデュエットを持ち掛けたうえで、レコードをまたしても自費で出そうと試みる。実際には伊東から提案を一蹴されたため、永田とのデュエット曲として、同年12月に「かんにんしてや」をリリース。この曲が佐川曰く「中ヒット」を記録したこと[9]や、NHKのディレクターからバーテンダー役でドラマへの出演を依頼されたことを受けて、1980年代に入ってから芸能活動を再開した[10]。 芸能活動の再開後は、地元の関西を拠点に、主に俳優として映画やテレビドラマなどに出演している[10]。もっとも、2003年に胃がんの手術で胃の2/3を切除。2018年には、「10年以上悩まされていた」という脊柱管狭窄症の手術で、腰に8本のボルトを入れられた[12]。このような事情から、復帰後は関東地方での仕事を、映画・ドラマの撮影や懐メロ番組・コンサートへの出演などに限定。2016年には、自身の意向から、「芸能生活55周年大感謝祭~生前葬~」を地元の神戸市で開催した[12]。大阪で鉄板焼1029も営んでいる。 もっとも、伊東や宙美との交流は離婚後も続いていて、「芸能生活55周年大感謝祭~生前葬~」にも2人揃って出演[12]『徹子の部屋』(テレビ朝日)でも、2度にわたって共演している(2017年8月25日・2018年7月18日放送分)。佐川は、『徹子の部屋』へ出演した際に、「歌への考え方や仕事の質などが違っていたという意味で『格差婚』だった」と回顧。伊東と同年代の一般人女性と、1988年に再婚したことも明かした。出演後に語ったところによれば、再婚相手の女性ともいったん離婚したが、実母の介護を手助けされたことをきっかけに復縁したという[12]。 ちなみに、「今は幸せかい」のリリース当時から現在まで髭を蓄えている[8]が、公の場では当時から10年以上にわたってカツラをひそかに着用。カツラを着用していることは、家族や一部の関係者(前述した大阪での盛り場回りに司会者として同行していた上岡龍太郎など)[8]にしか知られていなかった。しかし、1985年10月10日にNHK総合テレビで放送された短編ドラマシリーズ『私生活』第4話(「丘の上の白い家」)[13]で定年を迎えたサラリーマン役を演じた際に、自身の意思でカツラを外して撮影へ参加[10]。放送の5日前(10月5日)に関西テレビの『ノックは無用!』(上岡が司会を務めていた公開生放送番組)へ「コリゴリさん」(ゲスト)としてスタジオへ登場したところ、上岡から「新しいカツラで来たのか?」と水を向けられたため、最近(「丘の上の白い家」の撮影)までカツラを着用していたことを初めて公言した[10]。さらに、2015年1月24日にNHKで放送された『バラエティー生活笑百科』(NHK大阪放送局制作の公開収録番組)へゲストで出演した際に、カツラを着用しなくなるまでの経緯を告白。「娘(宙美)は小学1年生の時に、自分が仕事に行く前に自宅の鏡台でカツラを着けている様子を不気味そうに見つめていた。ある日、仕事先から帰宅したところ、自宅で埃を被っていた愛車のトランクに『パパはハゲ』という娘の落書きが残されていた。その落書きから『(カツラを着けて仕事に出る自分の姿が)娘にとっては不自然』と悟ったので、カツラを脱ぐ決心が付いた」と語っている[14]。 趣味は絵画の制作、料理、登山。絵画の制作については、小学生時代に画家の中西勝が主宰していた絵画教室へ通っていて、須磨高校からの中退後にも新開地の喫茶店で手ほどきを受けていた。中退後に「廃品」という油彩の抽象画を関西二紀展へ出品したところ、当時の最年少入選記録を樹立[1][15]。しかし、ギターの演奏へのめり込んだことを境に、絵画の制作から40年以上遠ざかっていた。60歳になった2000年から『ちちんぷいぷい』(毎日放送)の「前略、旅先にて」(紀行ロケコーナー)に「旅人」(リポーター)として出演したことを機に、絵画の制作を再開。2011年9月28日に同コーナーの放送を終了するまで、11年余りにわたってロケで200ヶ所を訪れたほか、後年の放送では「ロケ先での風景をボール紙に描く」という独特の画法も披露していた。2008年4月16日には、ロケ中に描いた絵画の一部を所収した画集『前略、旅先にて -心はいつも旅の空- 』が、ぴあから刊行されている(ISBN 978-4835616988)。もっとも、佐川曰く「『旅をしながら絵を描きたい』という夢が60歳から叶ったものの、自分の画風を作ることができなかったので、『前略、旅先から』が終了してからは絵を一切描いていない」とのことである[12]。 2023年に撮影した映画『あまろっく』の撮影中に体調不良を訴えており、2024年3月に入院。その後、容体が悪化し同年4月12日、胆嚢炎のため神戸市内の病院で死去した[16]。84歳没。訃報は遺作となった『あまろっく』の封切り翌日となる同月20日に公表された[17][18]。 ディスコグラフィー歌手としての代表曲
シングルビクターレコード
コロムビアレコード
ポリドール
トーラスレコード・東芝EMI
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映画
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ラジオ番組
ラジオドラマCM
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脚注注釈出典
関連項目
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