伊豆箱根鉄道5000系電車
伊豆箱根鉄道5000系電車(いずはこねてつどう5000けいでんしゃ)は、伊豆箱根鉄道大雄山線用の1984年(昭和59年)3月18日[1]から運転を開始した通勤形電車である。 概要それまで大雄山線の主力であった旧形国電や相模鉄道からの譲受車を置き換える目的で、1984年(昭和59年)から1996年(平成8年)にかけて3両編成7本(21両)が東急車輛製造で落成した。 駿豆線用の3000系をモデルに製造され、電装品やブレーキシステムは3000系と共通だが、車両限界が異なるため、車体長は18,000mm、車体幅は2,800mm(最大幅は2,850mm)で裾絞りなしの形状となっている。 発電ブレーキ装備の抵抗制御車としては珍しく、駿豆線3000系2次車以降と同様に付随車遅れ込め制御を有する。また、編成中の補助電源装置は電動発電機 (MG) もしくは静止形インバータ (SIV) を1基のみ搭載していることから、これが停止してもバッテリー電源により自力運転できるよう、小容量のインバータを別途有している。 つり革が2005年(平成17年)から変更されているほか、一部車両には車内案内表示器が設置されている。 車内は当初はロングシートのみであったが、第5編成以降はセミクロスシートとなっており、クロスシート部分は一部を除き関東地方では数少ない転換クロスシートを採用している。同じく関東地方で転換クロスシートを採用している京浜急行電鉄2100形とは異なり任意の転換も可能である[2]。
増備による変遷第1編成1984年(昭和59年)製造。車体は普通鋼製である。大雄山線は小田原行きか大雄山行きしかないため、前面行先表示器は字幕式ではなく「バイナリー・ヘッドマーク (Binary Head Mark) 」と称される装置を採用した。「小田原」と「大雄山」の表示を固定掲示して裏から電灯で照らすものである。光線の具合によっては点灯していない方の表示を読み取ることができる。 第2 - 4編成1986年(昭和61年) - 1989年(平成元年)にかけて製造。第2編成からは、ステンレス製軽量車体に変更された。第2編成は当初第1編成と同様、先頭車の連結側に貫通路扉があり妻窓は2段式であったが、扉はのちに撤去されている。これは第1編成も同様である。抵抗制御による制御装置・モーターがこの時期にはすでに日本の鉄道車両において主流ではなくなりつつあったものの(すでに多数がチョッパ制御からVVVF制御への過渡期)、引き続き採用された(後の第5 - 7編成も同様)。補助電源は第1編成がブラシレスMG (BL-MG) なのに対し、第2編成以降はSIVに変更されている。第3編成と第4編成はほぼ同じものであるが、第4編成は当初側面の社紋が赤で塗られていた。当初から貫通路扉がなく妻窓が下降式になり、ドアエンジンが静音形の同時期製造小田急8000形電車同様のものへ変更されたのが主な変更点である。 第5編成1990年(平成2年)製造。中間車の扉間の座席は転換クロスシートとされた。扉横も含め全ての座席が任意に転換できるが、扉横の座席と扉付近のスペースを区切る仕切りは存在しない。 また各車両の側面に小型のLED式行先表示器が設置された。 第6・7編成第6編成は1994年(平成6年)、第7編成は1996年(平成8年)製造。前面に排障装置(スカート)が装着され、パンタグラフは菱形から下枠交差形に変更された。また、行先表示器は「バイナリー・ヘッドマーク」からLED式に変更された。 内装については全車両の扉間の座席がクロスシートとされたが、第5編成と異なり扉横の座席は固定式とされ、中間のみ転換クロスシートとされた。したがって転換可能な座席数自体は第5編成から増えていない。 空気圧縮機 (CP) はHB2000から低騒音形のHS20に変更されている。第7編成には落成時から車椅子スペースが設置されている。ドアエンジンが再び変更され、第2 - 5編成よりさらに静音形のものになっている。 更新・改造
特別塗装
運用大雄山線の営業列車は、当系列のみの運行となっている。全般検査等の重要な検査を実施する際は、東海道本線小田原 - 三島間で甲種鉄道車両輸送列車が運行され、駿豆線大場駅に所在する大場工場に入場する。 脚注
外部リンク大雄山線車両の紹介 - 伊豆箱根鉄道
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