伊王野資信
伊王野 資信(いおうの/いおの すけのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。那須氏の家臣。伊王野氏20代当主。下野国伊王野城主。 伊王野氏は那須氏庶流で那須七騎の一つ。 資信は天文18年(1549年)の喜連川五月女坂の戦いで宇都宮方に与した。天正18年(1590年)の小田原征伐では、遅参したものの本領である伊王野740石は安堵された。文禄元年(1592年)から始まった文禄・慶長の役では加藤清正の軍に属した。蔚山の戦いで奮戦し、清正や浅野長政に賞賛された。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、上杉景勝に備える[1]。同年9月14日に上杉勢が伊王野城に侵攻してくると、関山で交戦し撃退した。[2]戦後、この功により2000石を加増され、2740石となったが、戦傷によって長男・資重が間もなく病死したため、次男・資友が嫡子となって伊王野氏を継いだ。 脚注出典
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