仏説温室洗浴衆僧経『仏説温室洗浴衆僧経』(ぶっせつうんしつせんよくしゅそうきょう[1][注釈 1]、旧字体: 佛説温室洗浴衆僧經)通称『温室洗浴衆僧経』[3]『温室経』[3]は、古代インドの仏教経典の一つ。入浴(沐浴)の功徳を説く[1][3]。日本の「施浴」などに影響を与えた[4]。 内容『大正大蔵経』巻16経集部で1頁余に収まる[5]、1300字ほどの短い経典である[3][5]。 古代インドの名医耆域(ぎいき、ジーヴァカ)が、釈迦とその弟子たちに入浴(沐浴)を薦める[1][3]。それを受け、釈迦が入浴の功徳を説く[1]。釈迦は入浴の七つ道具(七物)を挙げた上で[1][6]、入浴によって払われる「七病」と得られる「七福」を説く[4][5]。 時代背景として、古代インドでは入浴が盛んに行われていた[3]。ただし、温湯浴(湯船に浸かる)ではなく蒸気浴(蒸し風呂、ミストサウナ)が主流だった[1][4][3]。 入浴の七つ道具
七病を払う七福を得る伝来・影響サンスクリット原典は現存しないが、20世紀、ニヤ遺跡からカローシュティー文字のガンダーラ語断簡が発見されている[3]。 中国後漢の安世高(仮託の可能性あり[9])の漢訳が現存し、『大正大蔵経』巻16経集部に収録されている[5]。注釈書として、隋の慧遠『温室経義記』と隋末唐初の慧浄『温室経疏』が現存する[3][5][10]。唐の慧沼『温室経疏』もあったが現存しない[10]。 20世紀に発見された敦煌写本中には、本書の庶民向け講義本[3](俗講)や、慧遠注・慧浄注の異本[5][10]、本書を引用する北宗禅籍[10]、唐の道士李栄が本書に対抗して作った道教経典『太上霊宝洗浴身心経』が発見されている[3][5]。 これらから、隋唐の中国仏教で本書が重視され、入浴が盛んに行われたことが窺える[3][5][10]。 日本正倉院所蔵の写経記録から、奈良時代に度々写経されたことが窺える[3]。最初の写経は天平8年(736年)に行われた[4]。 本書は日本仏教の「施浴」(施湯・湯施行・功徳湯とも)に影響を与えた[1][11]。本書を背景に、僧の斎戒沐浴の場[4][9]および民の公衆浴場・湯治場として、多くの寺に「温室」(浴室・温室院・温堂・湯屋とも)が設けられた[1][4]。 本書伝来前から日本には天然温泉や禊の文化があったが、都市部の公衆浴場は、本書の影響を受けた奈良時代・東大寺の「大湯屋」が最初とされる[11]。以降、興福寺・法隆寺・元興寺などにも温室が設けられた[6][3]。光明皇后の「千人風呂」伝説や、明智光秀が妙心寺に寄贈した「明智風呂」も、本書が背景にあったとされる[12][6]。ただし、日本も江戸時代中期以前は蒸気浴が主流だった[9]。 日本語訳
脚注注釈出典
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