今啓パール
今啓パール株式会社(いまけいパール)は、兵庫県神戸市中央区山本通2丁目に本拠を置き真珠の加工、卸、輸出および真珠を加工した宝飾品の卸、小売り、輸出を行う会社である。主にあこや真珠、南洋真珠を扱う。ミキモトや ヤマトヤ などが主要な取引先[1]。 概要約250社の真珠業者が存在する神戸にあって、加工、販売までを一貫して行う会社は30社ほどしかないが、そのうちの一社。四国愛媛県の宇和島を中心に伊勢、九州の真珠養殖産地とパイプを持ち、年に一回(12-3月)の仕入れ入札会にて浜揚げ真珠を買付け、自社工場で加工を行うほか、ショールームや通信販売による直販までを一貫して行い、真珠の安定供給を図っている。あこや真珠は現在では韓国や中国でも養殖が行われているが、主な生産地は日本である。日本産あこや真珠は日本固有の四季により真珠層の透明感ときめの美しさで際立ち世界的評価も高く、現在では香港にも支店を持ち、神戸ブランドパールとして輸出も積極的に行っている[3][4][5][6]。日本真珠輸出加工組合加盟[2]。 真珠を使った宝飾品のほか、ミネラル補給調味料として液体真珠を発売している[7]。また、アコヤ貝のブルーカラーや黒真珠業新機軸などを考案[8]。 沿革年表
創業創業者の今井啓介の実家は宇和島で代々続くカマボコ製造業者であり、長男として生まれる。母方の祖父は文学者で「いろは道歌」という歌を残している。そこには人に裏切られた時の処世訓らしきものがあって影響を受けた。1963年(昭和38年)、父親が死去するがその2年前に発病した内臓疾患のため体重は70kgから42kgまで激減し医者から「一生寝たきりの生活になるだろう」と宣告されており、その後病気は回復はしたものの家業のカマボコ店はたたむ[10]。転地療養のためもあり[9]、当時、叔父が経営していた神戸の岡添真珠(後の岡添パール・1996年阪神・淡路大震災により任意整理[11])に入社。12年間加工部門に勤務。1975年(昭和50年)6月には岡添の協力もあり資本金10,000,000円で今啓パールを設立[3][6][12]。 度重なる経営危機当初、順調に滑り出すかに見えたが、創業10ヶ月目にして1,240万円に上る不渡り手形をつかまされたことを皮切りに、通算20億円あまりもの不渡りをつかまされることになる[6][9]。1980年からは珠(養殖真珠)を買い付け加工し製品化し始めるが、この際に資金のほとんどを投入したために翌年に買付けができなくなるが、運よく買えなかった1981年には30%もの急激な値上がりがあり、さらに翌年には逆に35%の値下がりしたため、損失を出さずに済んでいる。その後、採光が必要な真珠に隣地にビルが建つことで採光が悪くなり、この年度には珠の買付けを行わずに別社屋を購入するが、直後から不動産価格が急騰し、業績はよくなかったものの幸運に恵まれる[3][6]。 1985年(昭和59年)には親しい同業者への融通と倒産で、1億5千万ほどの損害を被る。このとき、業者間では今啓パールは再生不可能と噂された。しかし、翌1986年に円高が進行している最中にふとした偶然から円が220円台から170円台に急騰した直後に300貫のシーズン珠を買え、2億円で昨年の4-5億円分の買い物ができ、損失分を取り戻すことができた[3][6]。 設立後、6年間は今井が経営の一切を自らの手で行っていたが、ある研修で「一生懸命に事業をしてうまくいかないときは、その事柄はさておき、やっていないことにチャレンジしてみては」という講師の言葉にひらめき、「苦手な経理だけではなく、経営のすべてを社員に任せてしまおう」と決断。3年後には、社長が6人いるほどに社員が成長し、以来36年間業績を伸ばし続けてきた。現在では、目利きが必要で会社の命運を左右するような浜上げ真珠の入札ですら、若手社員に権限を委譲し任せているが、こうした経験をもとに今井は著書『業績を伸ばす任せっぱなし経営』(幻冬舎、2015年9月10日)を刊行[9]。 東京へ進出1989年、東京に進出。これまで創業者今井自らが陣頭指揮していたものをこの年には社員に第一線を任せるようになる。これを機に事業が好転。この年には、旧社屋から100mほど離れた場所に新社屋として地上5階、地下1階のビルを5億円で買い取り改築、翌1990年移転する[6]。 代表の交代2021年7月3日に創業者である今井啓介が他界。翌8月より息子の今井一之介が代表取締役社長に就任した。 創業者
出版
主要取引先販売先仕入元加入団体
(以上[19] より) 所在地脚注
関連項目参考サイト外部リンク |
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