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五辻宗氏
凡例
五辻宗氏
時代
鎌倉時代
中期 - 後期
生誕
宝治
2年(
1248年
)
死没
正和
4年
4月14日
(
1315年
5月17日
)
官位
従二位
、
非参議
、
左兵衛督
主君
後嵯峨上皇
→
後深草天皇
→
亀山天皇
→
後宇多天皇
→
伏見天皇
→
後伏見天皇
→
後二条天皇
→
花園天皇
氏族
花山院家
庶流
五辻家
父母
父:
五辻忠継
、母:
卜部兼直
の娘
兄弟
経氏
、
宗親
、
宗氏
、
忠子
、
北畠師重
室、恵一
妻
藤原佐村
の娘
子
忠氏
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五辻 宗氏
(いつつじ むねうじ)は、
鎌倉時代
中期から後期にかけての
公卿
。
参議
・
五辻忠継
の三男。
官位
は
従二位
・
非参議
、
左兵衛督
。
経歴
以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
建長
8年(
1256年
)1月6日、叙爵。
正嘉
元年(
1257年
)9月8日、
大膳大夫
に任ぜられる。
正嘉2年(
1258年
)8月20日、
従五位
上に昇叙。
文応
元年(
1260年
)6月14日、
侍従
を兼ねる。
文永
2年(
1265年
)1月20日、備中権介を兼ねる。
文永4年(
1267年
)2月1日、
正五位
下に昇叙。
文永5年(
1268年
)11月17日、
右少将
に転任し大善大夫を止める。
文永7年(
1270年
)12月4日、
従四位
下に昇叙。同月29日、
左少将
に転任。
文永8年(
1271年
)2月1日、下野介を兼ねる。
建治
2年(
1276年
)1月5日、従四位上に昇叙。同月23日、出雲権介を兼ねる。
弘安
2年(
1279年
)1月7日、
正四位
下に昇叙。
弘安4年(
1281年
)3月26日、
左中将
に転任。
弘安10年(
1287年
)1月13日、
内蔵頭
に転任。同年12月10日、内蔵頭を辞す。
永仁
3年(
1295年
)12月9日、
従三位
に叙される。
永仁5年(
1297年
)7月22日、
正三位
に昇叙。
正安
3年(
1301年
)4月17日、
左兵衛督
に任ぜられる。
嘉元
2年(
1304年
)3月21日、
従二位
に昇叙され左兵衛督を止める。
嘉元3年(
1305年
)9月17日、出家
[
1
]
。
正和
4年(
1315年
)4月14日、薨去
[
2
]
。享年68。
系譜
父:
五辻忠継
母:
卜部兼直
(
正四位上
行
神祇大副
、
信濃権守
)娘
妻:
伊予守
藤原佐村
娘
生母不明の子女
男子:
五辻忠氏
- 従二位、
甲斐国
布施荘
の預家
脚注
[
脚注の使い方
]
^
9月15日に
亀山院
が崩御したことによる。同月27日には素服を賜った。
^
『尊卑分脈』では正和2年4月24日となっている。享年は『公卿補任』と同じく68。
参考文献
『
公卿補任
』(新訂増補国史大系)
吉川弘文館
黒板勝美
、国史大系編集会(編)
『
尊卑分脈
』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)