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五辻宗親
凡例
五辻宗親
時代
鎌倉時代
中期 - 後期
生誕
仁治
2年(
1241年
)または仁治3年(
1242年
)
死没
乾元
元年
12月25日
(
1303年
1月13日
)
改名
家繁→宗親
官位
正二位
、
参議
、
左兵衛督
主君
四条天皇
→
後嵯峨天皇
→
後深草天皇
→
亀山天皇
→
後宇多天皇
→
伏見天皇
→
後伏見天皇
→
後二条天皇
氏族
花山院家
庶流
五辻家
父母
父:
五辻忠継
兄弟
経氏
、
宗親
、
宗氏
、
忠子
、
北畠師重
室、恵一
子
親氏
、
宗経
、
長親
、
具忠
、
俊継
、
長俊
、
俊宗
、
行親
、
宗子
、親子、後宇多天皇後宮
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五辻 宗親
(いつつじ むねちか)は、
鎌倉時代
中期から後期にかけての
公卿
。
参議
・
五辻忠継
の二男。
官位
は
正二位
・参議。
経歴
以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
寛元
2年(
1244年
)12月21日、叙爵。
建長
8年(
1256年
)4月5日、
侍従
に任ぜられる
[
1
]
。
正嘉
元年(1256年)12月15日、
従五位
上に昇叙
[
2
]
。
正元
元年(
1259年
)閏10月15日、
正五位
下に昇叙。
正元2年(
1260年
)3月29日、
筑前守
に任ぜられる。
弘長
2年(
1262年
)12月2日、
従四位
下に昇叙
[
3
]
。
弘長3年(
1263年
)12月24日、
少納言
に任ぜられる。
文永
2年(
1265年
)3月9日、従四位上に昇叙。
文永3年(
1266年
)2月1日、
摂津守
を兼ねる。4月3日、
左少将
に任ぜられる。
文永5年(
1268年
)5月13日、中将に転任。
文永6年(
1269年
)5月1日、
正四位
下に昇叙。
文永10年(
1273年
)3月25日、
讃岐守
を兼ねる。
弘安
元年(
1278年
)9月23日、得待。
弘安3年(
1280年
)12月7日、
内蔵頭
に任ぜられる。
弘安9年(
1286年
)9月2日、
蔵人頭
に補せられる。
弘安10年(
1287年
)1月13日、
従三位
に叙せられ
左兵衛督
に任ぜられる。
正応
元年(
1288年
)1月14日、母の喪に服す。7月14日、復任。8月25日、左兵衛督を止める。
正応3年(
1290年
)2月8日、
正三位
に昇叙。
正応5年(
1292年
)11月23日、
従二位
に昇叙。
永仁
6年(
1298年
)12月18日、
正二位
に昇叙。
乾元
元年(
1302年
)2月28日、
参議
に任ぜられる。9月25日、参議を辞す。12月25日、薨去。享年61または62。
系譜
父:
五辻忠継
母:不詳
妻:不詳
男子:
五辻親氏
-
従三位
右兵衛督
男子:
五辻宗経
男子:
五辻長親
男子:
五辻具忠
男子:
五辻俊継
男子:
五辻長俊
男子:
五辻俊宗
男子:
五辻行親
女子:
五辻宗子
-
後二条天皇
の
典侍
、
邦良親王
・
邦省親王
生母
女子:五辻親子 -
後醍醐天皇
典侍、
満良親王
生母
女子:
後宇多天皇
後宮 - 愉子内親王生母
脚注
[
脚注の使い方
]
^
この時、家繁と改名。
^
この時、宗親と改名。
^
侍従は元の如し。
参考文献
『
公卿補任
』(新訂増補国史大系)
吉川弘文館
黒板勝美
、国史大系編集会(編)
『
尊卑分脈
』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)