五十瓊敷入彦命五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと[1]、生没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本の皇族。 『日本書紀』では「五十瓊敷入彦命」「五十瓊敷命」「五十瓊敷皇子」、『古事記』では「印色入日子命」と表記される。 第11代垂仁天皇の皇子で、第12代景行天皇の同母兄である。石上神宮(奈良県天理市)神宝に関する伝承で知られる。 系譜(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載) 『日本書紀』『古事記』によれば、第11代垂仁天皇と、後皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと、比婆須比売命/氷羽州比売命)との間に生まれた皇子である。 五十瓊敷入彦命は長兄で、両書では同母弟妹として次の4人が記載される。
記録『日本書紀』では、五十瓊敷入彦命に関して次の事績が記載されている[1]。
『古事記』垂仁天皇段では、印色入日子命(五十瓊敷入彦命)は、血沼池(茅渟池)・ 狭山池(大阪府大阪狭山市)・日下の高津池(高石池に同じか)を造ったという[1]。また、鳥取河上宮にて横刀1千口を作らせて石上神宮に納めたほか、同宮にて河上部を定めたという[1]。 墓墓は、宮内庁により大阪府泉南郡岬町淡輪にある宇度墓(うどのはか、北緯34度19分49.67秒 東経135度10分43.49秒 / 北緯34.3304639度 東経135.1787472度)に治定されている[2][3]。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「淡輪ニサンザイ古墳」で、墳丘長200メートルの前方後円墳である。 五十瓊敷命の墓について『日本書紀』・『古事記』に記載はないが、延長5年(927年)成立の『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では「宇度墓」の名称で記載され、和泉国日根郡の所在で、兆域は東西3町・南北3町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する。これに先立つ持統天皇5年(691年)には有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある[4]。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある[4]。 しかし、中世には荒廃して所在が失われた[3]。明治7年(1874年)に『泉州志』の記載に基づき玉田山に定められたが、明治13年(1880年)に現在の墓に改められている[3]。なお、現墓について『和泉志』では紀小弓の墓としている[3]。 伝承伊奈波神社(岐阜県岐阜市)の社伝によると、五十瓊敷入彦命は朝廷の詔を承けて奥州を平定したが、同行した陸奥守豊益が五十瓊敷入彦命の成功を妬んで、命に謀反の心ありと讒奏した。そのため、朝敵として攻められて同地で討たれたという。さらに、夫の死を知った妃の渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと:景行天皇の皇女)は、都を離れてこの地で御跡を慕い、朝夕ひたすら命の御霊を慰めつつ生涯を終えたという。 脚注参考文献
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