二階堂盛義
二階堂 盛義(にかいどう もりよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・陸奥国の戦国大名。須賀川二階堂氏7代当主。 生涯二階堂照行の子として誕生。須賀川城を居城として陸奥岩瀬郡を支配していた。勇猛果敢な大名としてよりは能吏的・文化的な大名であったと伝えられる[1]。 永禄年間(1558 - 1570年)になると、会津四郡[注 2]を支配する蘆名氏や、田村郡を支配する田村氏と所領をめぐって度々戦いを繰り広げたが、永禄9年(1566年)2月に蘆名盛氏・盛興父子によって松山・横田両城を攻め落とされ、横田城主が生け捕りにされてしまう。盛義は嫡男(のちの盛隆)を人質として差し出すことで盛氏と和睦し、以後は蘆名氏の旗下に入った。 天正2年(1574年)6月、盛氏の嫡男・盛興が早世したため、人質であった盛隆が後継者として蘆名氏を継いだ。これにより二階堂氏も蘆名氏の力を背景にして天正8年(1580年)の御代田合戦で田村氏との戦いに勝利し、勢力を拡大した。ただし、この合戦の際に負傷したらしく、9月には突然温泉療養に向かって重臣の須田盛秀と箭田野義正が指揮を代わっている[2][3]。 天正9年(1581年)8月に死去(38歳とも)。その後、天正12年(1584年)10月に盛隆が暗殺されると再び二階堂氏は衰退し、天正17年(1589年)10月26日に伊達政宗によって滅ぼされた。 系譜関連作品
注釈 出典
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