亀原 嘉明(かめはら よしあき、1891年-1933年)は、日本の美術監督、映画プロデューサーである。日本における映画美術の先駆者として知られる[1]。
人物・来歴
1891年(明治24年)長野県上高井郡高山村の宮大工第三代亀原和太四郎嘉照の四男として生まれる。本名亀原袈裟治嘉明。上京する前は、父親と一緒に仕事をしたことがあり、長野県高山村天神原の天満宮の棟札には『小工 亀原袈裟治』の銘が墨書されている。
1912年(大正元年)に上京し、日活映画東京撮影所に大道具係として入社する。
1922年(大正11年)向島撮影所建設に参画。その後舞台装置部に転じ、装置部主任となる。[2]
田中栄三の回想によれば、日活が1913年(大正2年)10月に正式開所した日活向島撮影所の大道具に、田中が入社する1917年(大正6年)ころには在籍していた[3]。当時は映画にスタッフのクレジットがなく、記録が残っていない[4]。1922年(大正13年)、田中栄三監督の『京屋襟店』では、向島のグラスステージいっぱいに店舗のセットを建てた[5]。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生し、同撮影所は崩壊、日活本社は緊急事態を宣言するが、向島の現場を建て直し、溝口健二監督の『廃墟の中』等の美術を手がけたが、同年11月14日、京都・大将軍の日活京都撮影所に異動となる[6]。1925年(大正14年)、日活大将軍撮影所と名称を変更した同撮影所で、溝口健二監督の『紙人形春の囁き』の撮影の際に、向島時代の『京屋襟店』同様、家のセットを一軒構築している[7]。
1928年(昭和3年)、池永浩久同撮影所長のもと、亀原は撮影部長(現在でいう製作部長[8])に就任する。翌1929年(昭和4年)には、新人の長倉祐孝と共同で『栄冠』の監督を務めている。
1933年2月10日京都において死去。享年42。菩提寺は、京都妙心寺海福院。墓所は京都市大珠院。(戒名 積徳院春光浄栄居士)。[9]
おもなフィルモグラフィ
初期の記録が散逸しており、圧倒的に作品数が足りない[4]。日本映画データベース参照[10]。
日活向島撮影所
- 1922年
- 1923年
日活京都撮影所
- 1923年
- 1924年
- 『悲しき白痴』 : 監督溝口健二 - 舞台装置
- 『清作の妻』 : 監督村田実、第二部 (現代劇部) - 舞台装置
- 『前科者』 : 監督細山喜代松 - 舞台装置
- 『暁の死』 : 監督溝口健二、第二部 (現代劇部) - 舞台装置
- 『現代の女王』 : 監督溝口健二、第二部 (現代劇部) - 舞台装置
- 『塵境』 : 監督溝口健二、第二部 (現代劇部) - 舞台装置
- 『小さき者の楽園』 : 監督鈴木謙作、第二部 (現代劇部) - 舞台装置
- 『信号』 : 監督村田実、第二部 (現代劇部) - 舞台装置
- 『七面鳥の行衛』 : 監督溝口健二、第二部 (現代劇部) - 舞台
- 『さみだれ草紙 (紅殻)』 : 監督溝口健二、第二部 (現代劇部) - 舞台装置
- 『島の哀れ』 : 監督細山喜代松、第二部 (現代劇部) - 舞台装置
- 『籠の鳥姉妹篇 恋慕小唄』 : 監督鈴木謙作、第二部 (現代劇部) - 装置
- 『男性の叫び』 : 監督三枝源次郎、第二部 (現代劇部) - 装置
- 『歓楽の女』 : 監督溝口健二、第二部 (現代劇部) - 装置
- 『青春の歌』 : 監督村田実、第二部 (現代劇部) - 装置
- 『箕面心中 (恋の笑蝶)』 : 監督三枝源次郎、第二部 (現代劇部) - 装置
- 1925年
- 『白鸚鵡夫人』 : 監督三枝源次郎、第二部 (現代劇部) - 装置
- 『噫特務艦関東』 : 監督若山治・鈴木謙作・溝口健二、第二部 (現代劇部) - 舞台装置
- 『無銭不戦』 : 監督溝口健二、第二部 (現代劇部) - 舞台装置
- 『街の手品師』 : 監督村田実、第二部 (現代劇部) - 舞台装置
- 『因果帳 鴛鴦物語』 : 監督鈴木謙作、第二部 (現代劇部) - 装置
- 『学窓を出でて』 : 監督溝口健二、第二部 (現代劇部) - 舞台装置
- 『大地は微笑む 第一篇』 : 監督溝口健二、第二部 (現代劇部) - 装置
- 『大地は微笑む 第二篇』 : 監督若山治、第二部 (現代劇部) - 装置
- 『白百合は歎く』 : 監督溝口健二、第二部 (現代劇部) - 舞台
- 『赫い夕陽に照されて』 : 監督溝口健二・三枝源次郎、第二部 (現代劇部) - 舞台装置
日活大将軍撮影所
- 1925年
- 1926年
- 1927年
- 『旅芸人』 : 監督阿部豊 - 原作
- 『人形の家』 : 監督阿部豊 - 装置
- 1928年
日活太秦撮影所
- 1929年
- 1930年
註
外部リンク