久米小百合
久米 小百合(くめ さゆり、旧姓:久保田(くぼた)、1958年5月11日 - )は、日本の歌手、シンガーソングライター、キリスト教音楽家、日本バプテスト連盟加盟教会の教会員である。東京バプテスト神学校神学科修了[1]。 1979年から1984年までは久保田 早紀(くぼた さき)として活動していた。 来歴幼少期1958年、東京都北多摩郡国立町(現在の国立市)で生まれる。 母親の意向で、4歳からクラシックピアノを習い始めた。本人はそれほど熱中できず、小学校高学年になると、日本のフォークソングや歌謡曲、ビートルズなどを好んで聴き演奏するようになり、中学生になると、母の許可を得てレッスンに通うのをやめる。 1972年、13歳のときに八王子市に引っ越す[3]。八王子市立第四中学校の同級生男子3人組が、当時人気だった「ガロ」のコピーバンドを始めると、キーボード担当として誘われ、文化祭などで演奏を披露した。 松任谷由実や矢野顕子に憧れ、自作の曲を書き溜めていた[4]。当時、父親が仕事でイランに赴いており、現地で人気の女性アーティストのカセットテープをよく買って来てくれていた。中近東独特のそれらの音楽を聴いていたことが、異国情緒をともなう音楽性を養うことにつながったという声もあるが、実際は関係がなく、代表曲「異邦人」についても音楽プロデューサーの萩田光男氏によってテレビCMに合うように異国情緒をともなうように改変されたものであり、異邦人の原曲となる「白い朝」は異国とは関係なく日常の風景をうたうものだった。 デビューまで共立女子第二高等学校を経て、共立女子短期大学文学科に入学。在学中の1978年、「ミス・セブンティーンコンテスト」に応募する条件として、CBSソニー(現在のソニー・ミュージックレコーズ)に自分の歌を録音したカセットテープを送り、一次審査に合格する(同大会には松田聖子も参加していた)。本人は「ミス・セブンティーンコンテスト」は主にアイドル対象のオーディションとは知らず、人前で歌う勇気が無かったことから、レコード会社の人に聴いてもらえればという目的で応募したという。二次の水着審査は固辞したが、その代わりとして東京・六本木のCBSソニースタジオで弾き語りを披露することになり、そこでディレクターの金子文枝に出会う[4]。 金子の指導の下、デビューを目指し、当時八王子市にあった実家から23区内の短大とCBSソニーに通う日々を送る。中央線に乗車中、曲や詞を考えることが多く[5]、のちのデビュー曲「異邦人」は八王子付近[4]や国立付近[6][7]で作ったとコメントしている[8]。 金子からは「自分としての曲や詞を見つけていこう」と言われており、自分には何が有るかと思い返したところ、父からもらったイランのアーティストの音楽テープを思い出し、また金子から「ポルトガルの演歌とも呼ばれるファドの世界が合うと思う」と勧められ、ファド歌手のアマリア・ロドリゲスの歌を聴くようになった[4]。 久保田早紀としてデビュー1979年に短大を卒業すると、その年のうちに三洋電機がタイアップに付いてデビューが決まる。 デビュー曲の候補には「白い朝」、「夢飛行」[9]、「25時」[10]の3曲があり、「白い朝」はゆったりとした感じの曲だった。三洋電機の意向により「白い朝」に決定した後、CM映像がアフガニスタンで撮影されたことや、当時流行していたエーゲ海・地中海などの異国情緒などが意識されて、萩田光男氏によって歌詞・曲ともに大幅なアレンジが施された。久米によると、歌詞の最初の「子供だち~つかもうとしている」や「旅人」「時間旅行」といった語は元から歌詞にあったが、「異邦人」という言葉を含めてほとんどはこの時の書き直しに際して歌詞に取り入れられたもので、久米自身は異邦人を曲タイトルにすることには反対で、『旅人』『エトランジェ』といった候補を提案したが通らなかったという[11]。最終的に、音楽プロデューサー・酒井政利の判断で「異邦人」と改題され、「久保田早紀」のアーティスト名で、同年10月1日にレコードデビューした[4]。なお、「異邦人」には「-シルクロードのテーマ-」というサブタイトルが付されているが、1980年代以降のいわゆる「シルクロードブーム」の火付け役となったNHKのドキュメンタリー番組『NHK特集 シルクロード』は1980年4月からの放送であり、当該楽曲との直接的な関係は何もない。 タイアップされたカラーテレビのCMが放送されるにつれ、そのオリエンタルで神秘的な曲調や歌声に注目が集まり、じわじわと売り上げを伸ばしてブレイクする。12月13日、『ザ・ベストテン』に5位で初登場した際にはその美貌にも注目が集まる。12月27日には1位を獲得、1980年1月17日まで3週間連続(正月休みを挟み実質4週)で1位の座に留まり、その後3月6日まで12週の長きにわたり連続ベストテン入りする大ヒットとなった。同年12月に発表した最初のアルバム『夢がたり』もヒットし、一躍話題のニューミュージック歌手となる。金子らの方針もあって、当時のテレビ出演時にはピアノ弾き語りのスタイルを通した[12]。 デビュー後2作目のアルバム『天界』(1980年6月)では、引き続き得意のオリエンタル・エキゾチック路線を狙う。 3作目のアルバム『サウダーデ』(1980年11月)では、ファドへの憧憬から現地レコーディングを敢行し、前半の5曲(LP盤のA面)は、ファドミュージシャンたちの演奏をバックにしたポルトガル録音版となっている。 子供の頃に日曜学校に通うなど、キリスト教に親しむ環境はあったが、ポルトガルでのレコーディングから帰って来ると「もう一度教会に通ってみたい」と思うようになったという。 1981年の「オレンジ・エアメール・スペシャル」は、それまでとは曲調をがらりと変えた、夏らしいポップな曲で、「キリンオレンジ」のCMにも採用された。 同年、めじろ台のキリスト教会でプロテスタントのバプテスマ(浸礼での洗礼)を受ける。 その後はヨーロピアン調の曲なども手がけ、シンガーソングライターとしての活動を続けたが、「異邦人の久保田早紀」のイメージはぬぐえず、デビュー時のインパクトに勝る活動はできなかった。 「久保田早紀としてはもう十分に活動した」との思いもあり、音楽家の久米大作との結婚をきっかけとして、1984年11月26日、東京・九段会館でのフェアウェルコンサートを最後に芸能界を引退。商業音楽活動を中止する。 久米小百合として活動〜現在その後ほぼ間を置かず、クリスチャンのミュージック・ミッショナリー[1](教会音楽家、音楽伝道者、音楽宣教師)として、本名の久米小百合(あるいは、ひらがなの「くめさゆり」名義)で音楽活動などを行うようになった[13][14]。各地のキリスト教会などで教会音楽とアートを融合させたコンサートや、講演会、交流会を行うなど、活動を続けている。 デビュー曲の「異邦人」は、その後もたびたびCMソングに起用され、2003年には三洋電機のCMに再起用された。また、数多くのミュージシャンにカバーされるなど、長く歌い継がれる曲となっている。 1995年、日本テレビ「心のともしび」に出演。20年以上の時を経てメディアに姿を現すこととなった。 2007年、パワー・フォー・リビングのCMに出演。 2007年から2010年まで日本聖書協会の親善大使を務めており、2008年・2009年版の日本聖書協会カタログ(隔年間隔で刊行)の表紙や本文に、写真が掲載されている。 2013年8月31日、NHK BSプレミアムで『うたものがたり』が放送(22:00 - 22:59)。ヒット曲の裏側を検証する番組で、フィンガー5の「個人授業」と「異邦人」の2曲が取り上げられ、アーカイブ映像のほか、2013年当時の本人や関係者へのインタビュー・取材映像等も放映された。 2013年春に他界した母は病床で讃美歌を歌いながら息を引き取った[8]。 その後も、時折ではあるが、テレビやラジオ番組のゲスト出演、インターネット番組への出演などがある。 2020年6月7日に東京都品川区のきゅりあん大ホールで行われる「ミュージック・モア otonanoコンサート」では、36年ぶりに「久保田早紀」名義で出演することが明らかにされたが[15]、新型コロナウィルスの影響から2021年1月27日に延期[16]、その後再延期となり同年8月28日に開催された[17]。 長い不妊治療を経て、39歳で長男を出産した[18]。 ディスコグラフィシングル
アルバムオリジナルアルバム
ベストアルバム
ライブアルバム
企画作品
映像作品
参加作品
タイアップ一覧
主な楽曲提供
出演
著書全て「久米小百合」名義。
脚注
外部リンク
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