丹生酒殿神社
丹生酒殿神社(にうさかどのじんじゃ)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町三谷に鎮座する神社。高野山の麓、紀の川のほとりに位置し、境内社の鎌八幡宮は、御神木に鎌を奉献(刺し)し願掛けをする信仰があり、また高野参詣道の一つの「三谷坂」の起点であることでも知られている。 国の史跡「高野参詣道」を構成する資産として、丹生酒殿神社を含む「三谷坂」が指定されている[1]。 世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する資産「高野参詣道」の一つとして、丹生酒殿神社を含む「三谷坂」が登録されている[2]。 概要丹生酒殿神社は、丹生惣神主家伝来の天野大社周辺絵図(高野山大学所蔵)や高野山絵図などで、高野参詣道の三谷坂の登り口辺りに描かれている[3]。丹生都比売神社への参詣道であり高野参詣道の一つの三谷坂の起点に位置し、三谷坂は、丹生酒殿神社辺りに住んでいた丹生都比売神社惣神主が丹生都比売神社へ通うために通ったのが起源といわれる[4]。「紀伊国名所図会」に「當社を天野摂社随一として」[注 1]とある。また「紀伊続風土記」には「揔神主歩初と號し三谷大明神へ社参し」[注 2]とあり、「随一」「大明神」という記述から、丹生都比売神社にとって丹生酒殿神社が重要な位置にあったと示されている。また、丹生都比売神社が山上(中腹)に位置し、丹生酒殿神社が麓に位置する事や、先述した丹生都比売神社惣神主が住んでいた事などから、丹生都比売神社は山宮(中宮)に相当し、丹生酒殿神社は里宮に相当すると推定され[3]、また社伝によると、天ノ社(現、丹生都比売神社)の惣神主が当社で祭祀を行っていた記録が残り[5]、かつて丹生酒殿神社は現状で考えられる以上の重要な地位であった[3]、または元宮(丹生都比売大神降臨地)として重視されていたと考えられている[5]。 丹生酒殿神社は、丹生都比売大神が榊の枝を持って降臨した地とされるが、丹生大明神神告門(にうだいみょうじんのりと)によると、「丹生津比咩の大御神が高天原から最初に降りたところを紀伊國伊都郡奄太村の石口」としるされ、紀伊続風土記では「天降りし地は今三谷村榊山酒殿社其所なり。石口は麓の意なり」とある。このことから、丹生都比売大神の最初の降臨地が丹生酒殿神社であるとされている[6]。また具体的な降臨の地としては、紀伊続風土記によると、境内後方にある榊山を超えた谷にある七尋滝に降臨したとされ、この滝は長さは一丈ほどでありながら、滝壺は六尺の深さがあり、夏の祈雨のさいには、必ずこの地で行われるとある[6]。これらのことからも、この地は重要な地であり、丹生都比売神社とも深い関係があったとされている[6]。 かつて丹生都比売神社の惣神主が丹生酒殿神社で祭祀を行っていたが、近世の史料によると丹生酒殿神社で概ね次のような年中神事が行われていたとされる[7][8]。
この他にも、4月、5月に丹生都比売神社惣神主が丹生酒殿神社で祭を行うと、三谷村酒殿大明神由緒並びに竈門屋敷境内目録帳に記されている[7]。 以上の年中行事からも、かつて丹生酒殿神社は丹生都比売神社と祭祀を行うにあたって結びつきが強く、里宮に相当していたことがうかがえる。 神仏分離令による廃仏毀釈がされるまで境内に、別当護摩院(榊山福林寺)があった。紀伊続風土記によると、本尊は不動像で、七尋の滝から出現した、もしくは空海による自作と伝わる[9]。また本地堂(本尊:弥勒菩薩)、宝蔵、護摩堂、釣鐘堂があり[5]、鐘銘に神降山との山号があった。また高野山より当時へ護摩料として3石が附されていたと記されている[9]。廃寺された跡地は、臨降小学校(三谷小学校の前身)に転用された。 境内参道に、一の鳥居、二の鳥居、境内入口に、三の鳥居が建つ。境内には御神木の大銀杏があるが、社伝によると樹齢800年と伝わる[5][10]。環境省による、2000年に報告されている巨樹・巨木林調査報告によると、当神社の大銀杏は樹齢300年以上、幹周り526センチ、高さ25メートル、健全度は良好とある[11]。但し、この調査報告を作成するための調査票における樹齢区分では、300年以上の樹齢は全て「樹齢300年以上」に区分されているため、この調査報告による実際の詳細な樹齢は判別できない[12]。大銀杏は11月初旬頃から紅葉し始め、11月末頃から12月初旬にかけ落葉した葉が境内を覆い黄色に染まる事で知られる。また紅葉時期には銀杏のライトアップが行われている。社殿は割拝殿風の社務所兼拝殿、本殿が3殿が建つ。拝殿前に、1804年(文化元年)世界で初めて乳癌の手術に成功したといわれる華岡青洲が、1834年(天保5年)74歳の時に寄進したとされる石燈籠がある[13][注 3]。鎌八幡宮が当社に合祀(後述する)されたときに兄井村(現、和歌山県伊都郡かつらぎ町大字兄井)から移された高さ約2メートルの石灯籠で、「施主華岡随賢」「永代常夜灯」「天保五年甲午5月」の銘がある。施主名の華岡随賢については、華岡青州が使っていた別名とされる。拝殿より左方に摂社榊山神社、本殿後方の境内地に、摂社鎌八幡宮があり、鎌八幡宮の御神木に鎌を奉献(刺し)し願掛けをする信仰がある。境内後方の榊山では、同神社に伝わる三谷の笹踊りに使用する竹が自生し、榊山を越えた谷に丹生都比売大神が榊の枝を持って降臨したとされる七尋の滝がある。
由緒丹生都比売大神が降臨したと伝わる榊山の麓に鎮座する。社伝によると、榊山一体は、原初、先祖霊を祭祀する聖域だったと伝わる[5]。神代の昔、三谷[注 4]の裏山(榊山)に、丹生都比売大神が降臨し、丹生都比売大神の御子神の高野御子大神と百二十の眷属を従え降臨し[5]、共に大和地方や紀伊地方を巡幸し人々に農耕や機織り、糸紬ぎ、煮焚等の衣食に関わる事を教え、最後に天野[注 5]に鎮座したとされ、丹生都比売大神が紀ノ川の水で酒を醸した事で、丹生酒殿神社と呼ばれるようになったと伝承される[14]。あるいは榊山の地主神である竈門明神が酒を造り、初めて神前に供えたからとも伝わる。「紀伊続風土記」には「大和丹生川より榊を持して、この地七尋滝(境内裏手)に降臨された」と記されている[5]。かつて皇室からの尊崇が厚く、応神天皇からは御神領、後嵯峨天皇から位階勅状、後醍醐天皇からは和泉国木島荘園(現、貝塚市)寄進の綸旨、1334年(建武元年)には和泉国麻生郷(現、貝塚市)を祈祷田とする綸旨を賜ったと伝わる。また鎌倉時代、江戸時代に造営時、領主や藩主から幣帛料を受けたと記録に残る[5]。 政府の小社合併制作により、909年(明治42年)に兄井村(現、和歌山県伊都郡かつらぎ町大字兄井)に鎮座する鎌八幡宮を合祀。この時、鎌八幡宮横の諏訪明神社も同時に合祀されている。1935年(昭和10年)に丹生都比売神社の摂社として合併されるが、戦後に独立し、現在に至る[14]。 祭神社殿に向かって右より
笹踊り毎年8月16日に、笹に短冊で飾りを付けて踊りが奉納される。「酒」を「ささ」とよぶことから、笹(ささ)は酒を意味するとされる[5]。 境内社鎌八幡宮
願掛け(御神木への鎌の奉献)
榊山神社近隣地区の護国の英霊を56柱を祀る[5]。鳥居横に合祀されている護国の英霊の名を刻んだ石碑が建つ。
若力大神社境内地後方の榊山山頂の小祠に若力大神を祀る[5]。 元宮・鎌八幡宮、諏訪明神社丹生酒殿神社へ合祀される前に兄井村(現、和歌山県伊都郡かつらぎ町大字兄井)に鎮座していた鎌八幡宮、諏訪明神社は、丹生酒殿神社へ合祀後荒れていたが、両社は地域住民の有志により再興されている。元宮の鎌八幡宮も丹生酒殿神社の鎌八幡宮同様に、無病息災、子宝や安産祈願、受験等、諸々のポジティブな願掛けのみに御利益がある。 1995年(平成7年)に社を再建、長野県・諏訪大社より御神体を迎え、正遷宮を行い諏訪明神社を再再興また境内にあった櫟樫(イチイガシ)の木を御神木とし、て域住民一同で鎌を奉献(刺す)し、鎌八幡宮信仰も復活させ、元宮の鎌八幡宮として再再興されている[17]。
竈門明神社丹生酒殿神社の境内社ではないが、丹生酒殿神社と同じ三谷地区にあり、祭神は丹生酒殿神社と関係が深く、「酒殿」の名の由来にもなり、また丹生都比売神社とも関連が深い神社のため、ここに記述する。
丹生都比売大神が降臨の際に、煮炊きをして御供を奉じたとされ[7]、またその時に、竈門明神が酒を造り初めて神前に供えたとされる[22][9]。竈門明神の名は、御供の煮炊きで使った「かまど」に由来するとされる[7]。 丹生都比売神社との関わりも深く、紀伊続風土記によると、丹生都比売神社神職が代替わりなどで、初めて神社に入る場合、紀の川で祓をし100日間当社に参詣し幣帛を捧げた。また丹生都比売神社惣神主も代替わり時に、当社で初めて装束を着てから神職に任じられたと記されている[23]。「三谷村酒殿の大明神由緒並びに竈門屋敷境内目録帳」、及び「紀伊続風土記」によると、空海を高野山へ導いたとされる狩場明神が生まれたところに鎮座し、その産湯を温めた「かまど」が「竈門」の名の由来との説があると記されている[7]。しかし紀伊続風土記には、根拠は書かれていないが、その説は恐らく誤りであるとも記されている[23]。 文化財史跡指定年月日:2015年10月7日(平成27)。国の史跡に指定されている。
天然記念物境内の大銀杏が、かつらぎ町の天然記念物に指定されている[24]。 指定年月日:2017年(平成29年)4月27日、指定名称「丹生酒殿神社の大銀杏」 その他社宝
上記2点は、兄井村の鎌八幡宮が丹生酒殿神社へ合祀されたときに、丹生酒殿神社へ移された[17]。 世界遺産2016年(平成28年)に、丹生酒殿神社を含む「三谷坂」は、「高野参詣道」の一部として、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産に追加登録されている[2]。 かつての高野参詣道の一つの三谷坂は、丹生酒殿神社から丹生都比売神社を経て、高野山町石道に合流し、高野山へ至る参詣道で、平安時代の高野山への表参道といわれ、丹生都比売神社の神主や勅使の道とされた[25]。 ※2004年7月に「高野山町石道」がユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部として登録されたが、2016年10月24日に、三谷坂(丹生酒殿神社含む)、京大坂道不動坂、黒河道、女人道が追加指定された際、登録名称が「高野山町石道」から「高野参詣道」に、構成資産の高野山町石道は「町石道」に名称変更された。 関連項目脚注注釈出典
参考文献
外部リンク
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