丸川哲史丸川 哲史(まるかわ てつし、1963年11月 - )は、日本の歴史家、文芸評論家、明治大学政経学部教授。 人物和歌山県生まれ。1988年明治大学文学部卒業、1990年法政大学大学院日本文学科修士課程修了、同年財団法人交流協会日本語教育専門家、1994年財団法人海外漁業協力財団日本語教育専門家。 2000年一橋大学大学院言語社会研究科博士課程単位取得満期退学。2006年「台湾における二.二八事件前/後の文学空間―脱植民地期化と祖国化の交錯する磁場―」で一橋大学博士(学術)[1]。 2001年学習院大学東洋文化研究所助手、2002年明治大学政経学部助手、助教授、2007年准教授、教授。 はじめ小倉虫太郎の筆名で文芸評論を書き、1997年本名で「『細雪』試論」により群像新人文学賞評論部門優秀作。その後日本文学、台湾の植民地時代研究に移行する。小倉の筆名は2000年まで使っていた。 劉暁波への批判とそれへの反応2011年2月刊行の『最後の審判を生き延びて――劉暁波文集』(岩波書店)の「訳者解説」において、解説者である丸川哲史および鈴木将久が、劉暁波と彼へのノーベル平和賞授与を批判した。解説者たちと岩波書店に対して子安宣邦が以下のように反論した。「岩波書店によるこの書の刊行は、岩波書店の歴史だけではない、日本の出版史上に汚点を残す大きな不正である。それは道徳的にも、思想的にも許されるものではない」と厳しい批判を加えている[2]。子安は「岩波書店および雑誌『世界』は、劉暁波が「08憲章」を2008年12月に公表してから、中国民主化運動に関心を示すどころか、劉暁波のノーベル平和賞受賞について雑誌において全く言及しないほど一貫して無視してきたにもかかわらず、劉暁波のノーベル平和賞受賞後、一転して劉暁波文集について独占的出版権を得た」。「・・・『良識』を看板にしてきた岩波書店の商業主義的な退廃はここまできたか」と嘆いた[2]。解説者たちは「『08憲章』における中国の民主的改革構想に、そしてその中心的起草者である劉暁波に対するノーベル賞の授賞に疑問がある」とさえ述べている。子安は[2]以下の「訳者解説」の文章を俎上に載せた。
以上の「訳者解説」の文章[3]について、子安宣邦は以下のように反論した。
以上の議論ののち子安は岩波書店に謝罪と訂正改版の処置を公開で要求した[2]。しかし今[いつ?]なお丸川哲史、鈴木将久、岩波書店いずれからも応答はない。 高井潔司は子安宣邦の「訳者解説」批判には事実誤認があるとしつつも、依然「劉暁波氏の受賞を歓迎しない岩波解説[4]」は、「曖昧さを残している[4]」と指摘した。解説者たちは「訳者解説」で「『08憲章』に対して書名しなかった人が存在する」として、秦暉を挙げた。解説者たちは「(秦氏は)『08憲章』がかつてヴァーツラフ・ハヴェル氏などが中心になって署名運動を展開したチェコスロバキアの『77憲章』を多く模倣しているとして、しかし社会状態の違う中国においてそのような手法は有効だろうか」と問いを立てた。つづけて、「なぜなら、1977年のチェコスロバキアにおいては恐怖の圧政が第1番の課題であったが、現在の中国において喫緊の課題はむしろ経済問題だ。…そのような歴史的前提のない中国においては、それよりも、福祉や公共サービスをどうするかという『生存権』の議論の方が重要であるが、『08憲章』にはそれがない」と疑問符をつけた[4]。劉暁波は「改革開放が国家の発展と社会の変化をもたらした」と断言している。くわえて、「仇敵意識の弱まりは、政権に対してしだいに人権の普遍性を受け入れるようになり、1998年には中国政府は国連の二つの重要な国際人権規約への署名を世界に約束したが、これは中国が普遍的な人権について国際的な基準の承認を行ったことを示すものであった。2004年に全国人民代表大会が憲法を改正し、『国家は人権を尊重し保障する』という文言をはじめて憲法を書き入れ、これは人権がすでに中国の法治の根本的な原則の一つになったことを示している」と述べた。高井はこれを受けて、劉暁波が生存権や経済を考慮していないという訳者たちの批判は全く当たらないとして、「秦氏こそ、いまや日本を追い越し世界第2のGDP大国となりながら、『生存権の方が大事』と主張し、政治改革や人権改善を先送りしようとする中国当局の代弁者になり下がっている」と批判する[4]。さらに「訳者解説」では、ノーベル平和賞受賞決定後の10月11日に中国共産党内の自由派党員たちが「公民の言論出版の自由を実現しよう」とする公開書簡運動を取り上げられている。いわく、「この公開書簡では、中国共産党総書記胡錦濤や国務院総理温家宝が言論の自由の重要性を述べた発言が強調された。日本ではあまり注目されていないが、温家宝は、2010年8月の深圳の講話から始まり、国内外で数回にわたり政治体制改革を進める決意を語った」。さらに、「この公開書簡の求めた道は、中国共産党内の改革派の力を強めることであり、胡錦濤や温家宝の発言を実現することであった。劉曉波氏のノーベル平和賞受賞を境に、温家宝総理の政治体制改革への意欲は聞かれなくなった。長期的に見たとき、こうしたことが中国の民主化にどのような影響を与えるかは未知数である」と説明した。高井はこれに対しても、あたかも劉暁波のノーベル平和賞受賞が共産党内の改革派の足を引っ張ったかのように記述していると批判した[4]。他方、矢吹晋は2011年4月の『劉曉波と中国民主化の行方』(花伝社)のまえがきで「本書は劉暁波のノーベル平和賞受賞を契機として出版されるが、ノーベル賞に便乗しようというさもしい本ではない」と反論している[5]。しかし、高井は矢吹が「訳者解説」を皮肉っていることは明々白々と指摘した[4]。 丸川哲史は柄谷行人との「長池講義」において、劉暁波の思想がネオコンの思想家として著名なフランシス・フクヤマの思想を踏襲したものと指摘した[6]。とりわけ「08憲章」14条における土地の私有化、15条における「財産権改革を通じて、多元的市場主体と競争メカニズムを導入し、金融参入の敷居を下げ、民間金融の発展に条件を提供し、金融システムの活力を充分に発揮させる」という箇所について、新自由主義的であると批判した。 著書単著
共編著
訳書
脚注
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