丸山寿美太郎
丸山 寿美太郎(まるやま すみたろう[1]、生年不明 - 1917年(大正6年)8月26日)は、日本の海軍軍人。日露戦争における第三戦隊参謀、第一次世界大戦勃発時の駐仏武官である。栄典は正五位勲三等功五級。最終階級は海軍大佐。 生涯
山梨県出身。1892年(明治25年)11月海軍兵学校入校。丸山ら海兵23期の入校試験は志願者574名を集め[2]、合格者は首席の大谷幸四郎はじめ20名である。丸山の席次は5番であった。在校中に日清戦争が勃発し、兵学校も戦時体制がとられた。海兵21期は卒業がひと月繰上げになり実戦に参加したほか、一部教科は授業中止となっている。これは教授用兵器の鎮守府等への返還、練習艦「鳳翔」の戦役従事、教官(士官)、教員(下士官、兵)らが動員を受けたことが理由である[3]。戦死した中野信陽、志摩清直は丸山らが入校した際の教官であった。1895年(明治28年)、「金剛」 乗組みとして乗艦実習を受け、翌年卒業を迎えた。丸山は首席卒業者で、恩賜の双眼鏡と時計を授与された[4]。
1896年(明治29年)1月、少尉任官。「比叡」乗組み、「八重山」水雷長心得などを経て、1902年(明治35年)に仏国駐在を命じられる。同時に海外駐在を命じられたのは、伊藤乙次郎(独国)、賀茂厳雄(米国)、川原袈裟太郎(露国)、古川鈊三郎(英国)、筑土次郎(独国)らである。丸山が向かった仏国の駐在武官は竹内平太郎であった。竹内らと「日進」回航委員として帰国後、第三戦隊参謀として出羽重遠を補佐して日本海海戦を戦った。その後の人事異動によって、新たに第四戦隊司令官となった小倉鋲一郎を参謀として補佐し[5]、9月に軍令部参謀に転じている[6]。 戦後は海軍大学校甲種5期を卒業。「宗谷」副長などを経て、1913年(大正2年)1月、駐仏武官となる。翌年には第一次世界大戦が勃発しているが、日仏は友好関係にあり丸山は武官として留まった。在任中山路一善を責任者とする航空視察団[* 2]の受け入れや、万国航海会議などに関わっている。1915年(大正4年)12月、大佐へ進級し帰朝を命じられた。前任の駐仏武官は「日進」回航をともにした松村純一、後任は海兵23期の次席で、また海大の同期でもあった松村菊勇である。1916年(大正5年)7月、大正天皇の侍従武官に就任したが翌年7月12日に待命となり[7]、8月に死去。46年の生涯であった[8]。
1903年(明治36年)、日露戦争を目前にした日本は戦力増強を図り、亜国から装甲巡洋艦2艦の購入を図っていた。同年12月22日、竹内宛に「購入については未決であるが両艦の現状などを報告せよ」という趣旨の電報が届く。丸山と松村は竹内に対し、「両艦を購入し、これに乗艦して帰国すべき」と進言した[9]。竹内は視察後に報告を送り、日本は両艦の購入を決定。竹内、丸山らに「日進」回航委員として帰国を命じた。「春日」回航委員長であった鈴木貫太郎によれば、「日進」乗員は 英国人、伊国人、日本人からなり、軋轢があった[10]。また日露はすでに開戦含みであり、航海中の松村と丸山は火薬庫にあって、非常の事態には艦を爆破させる予定であった[9]。 現実に「日進」、「春日」は露国海軍の追従を受けたが、英国海軍の援助を受け、ジェノヴァから日本への回航は成功裡に終わった。人員は都合8カ国におよび、横須賀への到着は1904年(明治37年)2月16日である。この2艦の安着に対する日本の歓迎振りは際立っており、回航艦長(予備役英国海軍将校)らは特別列車で上京して明治天皇に拝謁し、また叙勲を受けている。国民からの感謝状や土産品は山のようであったという[11]。なお、日本はこの2艦のシンガポール出港(1904年2月4日)をもって開戦を決意したのであり[12]、同日に第二回御前会議が開かれ、山下源太郎が連合艦隊へ封緘命令をもたらしたのは2月5日、翌6日をもって連合艦隊命令第一号が下達された。
丸山の人柄について、松村純一は「平素に似合わず事にあたりて豪勇なる」という言葉を残している[9]。妻は富岡定恭の娘、直。津留雄三、富岡定俊は義弟[13]。正五位勳三等功五級。仏国からはレジオンドヌール勲章が贈られた。 日進・春日回航委員脚注
参考文献
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