中村直吉中村 直吉(なかむら なおきち、慶応元年6月25日(1865年8月16日) - 昭和7年(1932年)7月27日)は、明治時代の冒険家。生来の旅好きで「旅行狂」「風船玉」を自称した。 生涯アメリカ行きまで明治20年(1887年)、福沢諭吉が横浜正金銀行初代頭取だった中村道太[注釈 1]とともに、アメリカに「日本村」建設を計画すると、これに共鳴し参加を志す。しかし、計画の責任者だった井上角五郎が甲申政変に関与した嫌疑で逮捕されたため、渡航直前に計画が頓挫してしまう[1]。 アメリカ行きの志を諦めきれない直吉は、翌21年(1888年)に結婚後間もない妻を残し単身渡米した。以後、同26年(1893年)の一時帰国を挟んで、明治31年(1898年)までの前後10年間に及ぶ海外放浪を続け見聞を広める。 世界一周帰国後は、呉服町で帽子店を営む一方で政治活動にも関わるが、再び海外渡航の計画を立てるようになる。 明治34年(1901年)、36歳の直吉は帽子店を妻子に任せ、世界一周に出発した。ステッキを片手に、「World Explorer(世界探検家)」と書かれた白いリボンを洋服につけて[2]アジア、中近東、アフリカ、ヨーロッパ、南北アメリカ、ニュージーランド、オーストラリアを周遊。シンガポールで同時代の旅行家である岩本千綱と、万博が開催されていたセントルイスやテキサスでは社会主義者の片山潜と出会っている[3]。60カ国・5年10ヶ月に及ぶ旅で、その間の記録は、彼の「世界各国旅行証明簿」と名付けた冊子に記録された。行く先々では、各国の王族、貴族など著名人から一般市民まで出会った人々にサインを求めたため、冊子には400以上のサインが記されている。 明治40年(1907年)、世界一周旅行から帰国。後に自己の探検記を、当時の人気作家・押川春浪との共編という形で『五大州探検記』と題して出版した(全5巻)。これにより、中村は「明治の快男児」として各界から持て囃された。また旅行記執筆とあわせて、講演のため各地を旅行している。 その後後年は、私設移民相談所を開設したり[4]学生向けの食堂を企画する[注釈 2]傍ら、再び政治活動に関心を持つ。昭和3年(1928年)には社会民衆党に所属して[6]豊橋市会議員に立候補するが、得票数5票で落選という結果に終わった。新天地を求めて南米への移住を決意する[6]も、渡航手続きのため上京した昭和7年(1932年)7月、かき氷を食べて心臓麻痺を起こし急逝[2][7]。享年69(満68歳没)。 著作
なお、「亜細亜大陸横行」や「南洋印度奇観」の巻末に、『南米に行け』[注釈 4](発行・南米協会、発売・博文館)の近刊広告が掲載されているが、実際に出版されたかは不明[10]。 展覧会など
注釈出典
参考文献
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