中山忠愛
中山 忠愛(なかやま ただなる)は、江戸時代後期の公卿。准大臣・中山忠能の長男。字は子誠、号は東園。官位は従四位右近衛中将。維新後は華族。中山家25代当主。 経歴中山忠能の長男として誕生。母は松浦藩主松浦清の十一女中山愛子。1863年(文久3年)、右近衛中将に至るが、養子であった同母弟・忠光が天誅組の変を起こし、忠能から義絶された。また弟正親町公董が三条実美と面会したとされて差控となり、忠能は半引退状態となった。さらに翌年の禁門の変で忠能・忠愛父子は長州藩に好意的な態度を取ったとして参朝・他行・面会を禁じられて失脚した[2]。1867年(慶応3年)正月の孝明天皇崩御と明治天皇践祚にともなう大赦が行われ、禁門の変で処分された公家の復権が行われたものの、忠能・忠愛父子はこれに含まれていなかった[3]。同月の23日になって忠能は赦免され、ようやく復権した[4]。忠愛は1868年(慶応4年3月19日)に参与に任じられている[5]。1876年(明治9年)には従四位の位階を返上している[6]。 明治15年(1882年)に没し、祭粢料500円が下賜された[7]。享年51。 系譜脚注
参考文献
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