中山容中山 容(なかやま よう、1931年11月28日 - 1997年3月7日)は、日本の翻訳家、詩人、英米文学研究者。「ボブ・ディラン全詩集」などの訳者として有名。平安女学院大学、京都精華大学で教鞭をとった。本名、矢ケ崎庄司[1]。 経歴東京都八王子市出身[1]。1954年、明治学院大学文学部英文科卒業[1]。 1959年~1960年[1]、フルブライト奨学生として渡米し、サンフランシスコに滞在。ここで片桐ユズルと出会う。1968年、国際基督教大学修士課程修了[1]。1960年代末、東京都立武蔵高等学校の英語教諭から、京都の平安女学院短期大学の教官となる。 片桐ユズルとともにボブ・ディランの楽曲の歌詞の翻訳を手がけ、関西フォーク運動の影の仕掛人のひとりとしても知られ、中山ラビ、古川豪、高石ともやらに影響を与えた。ピート・シーガーやボブ・ディランの歌を訳して若いシンガーたちに紹介。1969年8月、京都で開催された第4回フォークキャンプコンサートに出演するフォークキャンパーズのために、ボブ・ティランの「プレイボーイプレイガール」の替え歌を作詞し、全国各地でフォークキャンパーズを連れて、フォーク・キャンプをして回る。 詩の創作を行うほか、「ビート詩人」たちの詩を翻訳。ビート詩人の自作詩のポエトリー・リーディングの影響を受け、秋山基夫、有馬敲、片桐ユズルらとともに、オーラル派の詩人を形成。各地で、朗読会を企画・開催した。中国系アメリカ詩人もアラン・ラウらも参加した。 1972年、片桐ユズル、甲斐扶佐義、岡林信康らと京都市内で喫茶〈ほんやら洞〉開店[2]。 1974年、片桐ユズル共訳による『ボブ・ディラン全詩集』(晶文社)刊行。この頃、東京の国分寺にできた「ほんやら洞」の支店を買取る[3]。 1979年8月、片桐ユズル、中村哲(後にエフエム京都の代表取締役専務となる田中聡の筆名)との共編による『ほんやら洞の詩人たち』(晶文社)が刊行される。同年秋、甲斐扶佐義、ニコラ・ガイガー、中尾ハジメとともに「出町国際交流センター」(京都市左京区下鴨蓼倉町)設立[2]。 1980年代前半ジョン・オカダ作の小説『ノーノーボーイ』を邦訳した後、「日系アメリカ文学研究所」を設立し、日系並びにアジア系アメリカ文学を研究紹介する。ニューズレター"IJAL NEWS"を発行。編集者は中山容、神田稔。ジョン・オカダの実弟の画家、フランク・オカダの講演会を京都ほんやら洞で開催する他、アジア系アメリカ人詩人、アラン・ラウなどの朗読会を主催。 1983年5月、1985年にピューリッツァー賞を受賞するスタッズ・ターケルの『よい戦争』(晶文社)を翻訳。晶文社から出版されたターケルの本のすべて(『仕事!』『インタビューという仕事』他)を翻訳ならびに監訳。 また、英米文学研究者として、京都精華大学短期大学部教授を経て、人文学部教授、学部長も務めた[1]。 1993年4月、『ボブ・ディラン全詩302篇』(晶文社)を片桐ユズル共訳で出版。 1997年3月7日、京都市内の病院で死去。同年3月30日、中山ラビ、高田渡らが吉祥寺でライブを含めた「偲ぶ会」を開く。遠藤賢司、大塚まさじ、中川五郎、泉谷しげるらが駆けつけた[4]。 著書編著
訳書
脚注
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